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男の体臭ケアの無頓着さへの批判は男性差別ではない

川口ゆりアナウンサーが男の体臭ケアへの無頓着さに苦言を呈し、「男性も体臭ケアに気を遣ってほしい」という趣旨の発言をしたところ、「男性差別だ」「男性へのヘイトだ」との攻撃が集まり、事務所から契約解除を言い渡されたことはみなさんご存じかと思う。今回の記事ではその騒動を受けて、果たして川口ゆりさんの発言は本当に男性差別なのか、そもそも問題発言なのかどうかについて考えていきたい。

§川口さんの発言はどういう性質のものか


川口さんへの激しい攻撃が続いている一方で、川口さんへの処分に反対する声も少なくない。そして処分に反対する立場の人達の主張はおおまかに分けると「臭い奴に臭いと言って何が悪い」というものと「問題発言ではあるかもしれないが、処分や社会的制裁が過剰である」というものに分けられる。私の立場はこのどちらとも異なるのだが、川口さんを攻撃する声や処分に反対する声を見ていて、川口さんの発言の背景を読み解くうえでの重要な視点が欠けているように感じたことから、この記事を執筆することとした。

詳しい説明は後で行うが、川口さんの発言は「既婚男性でも家事育児をしようとしない人がすごく多いのが気にかかります。ちゃんと男性も家事育児をすべき」といった発言と方向性が非常に近い。ゴリゴリのアンチフェミならこの発言にも噛みつくだろうが、フェミニズムや男女平等にそれなりに関心のある人であれば、まさかこの発言を「男性差別だ」「男性へのヘイトだ」とは言わないだろうし、問題発言だとも思わないだろう。というのも、これは「家事は女がやるものであり、男はしなくてもいい」という性差別構造の上であぐらをかいている男に対する「差別構造に乗っかるのをやめるべき」という正当な抗議だからである。

ここで言いたいのは「社会には女性差別があるから、男に対しては何を言っても、それは正当な抗議となる」ということではない。表面的には「男への批判」という共通性があっても、それが「男性を不当に扱った発言」なのか、「女性差別構造に乗っかる男への抗議」なのか、そうした背景を見なければその是非は判断できないということである。

§本当に男性を不当に扱った発言とはどういうものか


では、実際に私が「これは本当に男性に対する不当な発言と言われても仕方ない」と思う例をいくつか挙げてみよう。

「男なら働くのが当然だろ。働いてないとか男じゃない」
「男なら泣くな」
「男が化粧するとか、ホモじゃないんだから」

これらはどれも批判されてしかるべき発言である。どれも「男は男らしくこう振る舞うべき。そうでなければ男と呼ばれるに値しない」という男社会の勝手な決まりを押し付ける類のものだからである。こうした発言を容認してしまうと、「男は男らしくを容認するなら、女は女らしくと言われても文句を言うなよ」という方向に向かうことが容易に想像がつくことからも、もはやこれらの発言は容認されるべきではない。

あえて男の体臭について当てはめるのであれば、もし「男が体臭を気にして制汗剤とかデオドラントとか使うとか恥ずかしい。女じゃないんだから」というような趣旨の発言がなされたのであれば、それは本当に問題発言として扱われるべきと言えるだろう。

§「女に言っちゃいけないことは男にも言っちゃいけないだろ」は本当に正しいか


よくその発言の是非を考えようとするとき、ミラーリングを装って「もしこの発言が女に対してなされていたら問題になるのは確実だから、男にもしちゃいけないだろ」という主張がなされることがあるが、両者の立場に何らかの非対称性がある場合はこのような主張は正しくない。

これは「女が家事をすべき」と「男も家事をすべき」という二つの発言を比べてみるとわかるだろう。前者は「家事は女がやるもの」という性差別規範に基づき、それに従うことを求めるものだから明確に差別発言である。しかし後者は「性差別構造の中で男は家事をやらなくていいとされてきたが、そのような差別的なしきたりはやめて、男も家事をするようになるべきである」という性差別構造の解体を求める発言である。形だけを見れば似た発言になってはいるが、その性質は全く異なるのである。

今回の川口さんへの攻撃は「女を批判するのが女性差別なら、男を批判するのも男性差別だ」といったロジックで行われているものが多く、「男女平等だと言うなら、男への批判も差別発言として扱われるのは当然」といったふうに正当化する人が多いが、それは性差別の構造や非対称性を何も考えていない、表面的な形だけを見た空疎な論と言っていいだろう。

このようなことを言うと、また「女性差別があるから男には何を言ってもいいというのか」と言われそうだが、もちろんそうではない。この社会構造の中で、理不尽に従うことが求められている規範は女性と男性で異なっているのだから、それが問題発言かどうかを判断するにはその規範の違いを考慮しなければいけないということである。

たとえば「男なら大黒柱として一人で家族を養えるだけの収入を得てこいよ」のような発言なら、男社会の規範を押し付けようとする発言であり、これは厳しく批判されてしかるべきだろう。

§川口さんの発言の背景を読み解く


ちょっと川口さんの発言そのものから話が脱線してしまったが、川口さんの発言の裏にある背景を見ていきたい。川口さんがどれぐらいそれを意識していたのかはわからないが、川口さんの発言を読むうえで理解しておかないといけない背景として、「女性は服装な清潔感など、身なりに関する数多くの強い規範に従うことを要求されているのに対して、男はその多くが免除されている」という社会構造の存在がある。

「女は化粧をしろ。そうしなければマナー違反だし社会人失格だ。男はしなくていいけど」、「女はわき毛やすね毛や腕毛を全部処理しろ。女が毛が濃いとか不潔だろ。男はしなくていいけど」、「女は仕事でヒールを履け。履きにくいのに履かすなとかワガママ言うな。男は普通の靴でいいけど」とそうした例は枚挙にいとまがない。そして体臭もまたこうした服装や清潔感に関する規範の男女格差構造の一つとして存在している。

女性が男よりも服装や清潔感に強く配慮するのを「女はオシャレが好きだから」という個人の価値観に帰着させる人が多いが、その背景には「女は清潔感に強く配慮すべき。男はいいけど」という「女に厳しく、男に甘い」清潔感や身なりに関する性差別構造が存在しているのを忘れてはいけない。さらに踏み込めば、そうした規範の男女格差には「女は男の鑑賞物として耐えうるように身なりを磨いておけ」という構造が存在しており、実はこれは明確な女性差別の一種である。

そしてこうした服装や清潔感に関する規範の性差別的な構造への抗議はすでに女性差別への反対運動の一つの潮流ともなっている。石川優実さんが先導したKuToo運動はまさにこの文脈に沿ったものであったし、最近フェミニストの間で広がりつつある「あえてムダ毛処理をやめよう」という運動も同様である。

KuTooや女性ばかりがムダ毛処理を求められることへの反対運動はどちらも「女性にばかり課せられた身なりへの規範へのプロテスト」という形だが、身なりに関する規範の性差別構造への反対は「身なりへの規範は女性だけでなく男性にも求められるべきではないか」という方向でも成立しうる。

それがまさに今回の川口さんの「体臭は周りの人に迷惑をかけるのだから、体臭ケアは女性にばかり求めるのではなく、男性もちゃんとすべきではないか」という今回の発言なのである。すなわち、これは体臭ケアに関する女性差別構造への抗議として位置付けることができる。これが男性差別であるはずなどないのである。

したがって、川口さんへの処分に反対する人達は「たしかに問題発言ではあったかもしれないけど処分はやりすぎ」みたいな奥歯に物のはさまったような言い方をするのではなく、「そもそも男性の体臭問題の背景にあるのは身なりに関する女性差別であり、川口さんの発言は問題発言でも何でもなく、川口さんを攻撃する奴等がやっているのはただのバックラッシュである」と堂々と言うべきである。

§「女も香水が臭い奴がいる」と言う男は実は“よくわかっている”


少し話を変えるが、男の体臭ケアへの無頓着さゆえの臭さを指摘されると、「女も香水が臭い奴がいるだろ」とドヤ顔でカウンターをかましてやったみたいに言い出すアンチフェミ男が必ず出てくる。しかしこの発言はカウンターのようでいて、実は見事なまでに墓穴を掘っているのだ。というのも、香水はそもそも体臭ケアの一環として行われるものである。したがって、このカウンターもどきの発言は「女はたしかに男と違って体臭ケアに気を遣っているが、それが過剰になって香水が臭くなってしまってる奴がいるだろ」と、結果的に「男と違って女性は体臭ケアをしている」という事実を認めてしまっているのである。これは実に皮肉なことである。

§「男性の体臭ケアの無頓着さへの批判」への攻撃を先導する人達の狙い


川口さんを攻撃している男の大半は「どんな理由であれ男を批判するのは男性差別だ」といったゴリゴリのアンチフェミや、「男女平等なんだから男のことを批判するのもダメだろ」といった男女平等の概念を表層的にしか理解していない奴等だが、中にはいろいろとわかったうえである方向へ世論を誘導しようと思ってこの騒動を先導している者もいる。

そのわかりやすい例が小沢一仁弁護士のように「男女ともこんなキャンセル論争はやめようぜ」と主張している人達である。小沢一仁氏は暇空茜や石川優実氏を攻撃して訴えた男性(もちろん敗訴した)を担当した弁護士であり、そのスタンスがどのようなものであるかは言わずともわかるであろう。

彼の発言を見るとはっきりとわかるが、この騒動を利用して「あんまり女性差別を批判してキャンセルカルチャーを盛り上げると、こうやって男性批判をしたときにカウンターを食らう結果になるよ。だから女性差別への批判も控えたほうがいいんじゃない」と主張しているわけである。この騒動をいわゆる「最近は何でも批判される息苦しい社会になった」論へと結びつけることで、本当の差別への批判言説を抑え込む方向へと誘導したいのである。そういう点においても、川口さんへの擁護として「問題発言かもしれないけど処分が厳しすぎ」のような微温的な発言をするのは筋が悪い。これはそのまま「じゃあ女性差別的な問題発言への処分も甘くしようね」という方向に援用されてしまうのが目に見えているからである。

川口さんの発言を森元総理の女性差別発言と並べる人も見たが、これまで述べてきたように川口さんの発言はそもそも男性差別でも何でもなく、「身なりに関する規範の男性優遇構造への正当な批判」なのだ。川口さんへの処分に反対する人はそのことを胸を張って訴えていかないといけない。それと同時に、この騒動は「女性差別構造への正当な抗議すらも、『男性への批判となっている』という表層的な事実だけを用いて『男性差別』の名のもとに黙らせようとする明確なバックラッシュである」という危機感を持たねばならないだろう。

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