見出し画像

シーライオニングとネット詭弁

現在このnoteで連載している「こんな害悪男オタクにならないように」シリーズの第2回記事である。前回にあたる第1回記事「表現の自由戦士と呼ばれる人達の思想とは何なのか」では、「表現の自由戦士」と呼ばれる人達についての一般的な傾向を分析したが、彼らは他者と議論をするときにも極めて強い特徴を見せる。それが「シーライオニング」と呼ばれる手法を代表とする詭弁を多用する点である。彼らは他人との議論というものを、意見そのものは一致しなくとも、相手の言い分を互いに理解したうえで自分の意見を述べることの繰り返しによって対話を深めるものだとは考えていない。むしろ、どのような手法─たとえそれが詭弁であっても─をいくら用いてもいいから、相手の言葉を詰まらせれば勝ちとなるゲームのようにとらえている。そのため、誠実な議論としては本来は禁じ手となる詭弁を多用することに躊躇がない。そのうえ、シーライオニングなどの詭弁を用いて返答をしてくるならまだマシなほうで、「相手に言い返せればそれでいい」としか考えない人間も多いため、「日本語として成立していない屁理屈のような何か」が返ってくることも多く、さらには意味のないただのクソリプが返ってくる率も他のクラスタの人達と比べて異様に高い。そのため、この第2回記事ではこうした彼らの議論もどきに特徴的に表れてくる詭弁の多用に着目し、「シーライオニングとネット詭弁」と題して深く掘り下げてみることとした。

§1.シーライオニングとその派生形

§1-1 シーライオニング

シーライオニングとはどのような詭弁かを説明する前に、まずその例を見ていただこう。

人間 ラーメンのスープは全部飲まないほうがいいよ、塩分が多いから
シーライオン 塩分が多いというのは何gからですか? それを多いとするソースは?
人間 えっと、日本では男性は7.5g未満が推奨されてたはずだけど
シーライオン で、どのくらい危険なのですか? 毎日7.5g以上塩分を摂ると何年で死ぬというデータは?
人間 そのデータは聞いたことはないけど、高血圧の予防に効果があると学会も言ってたはず
シーライオン では毎日7.5g以上の塩分を何年摂ると必ず高血圧になって死ぬのか教えてください データ付きで
人間 そういうデータはないと思うけど・・・
シーライオン では「食塩1日7.5g未満」という基準は全く意味がない「お気持ち」ということになりますね はい論破

シーライオニングは一般的には「相手に対して延々と無駄な質問を繰り返すこと」と説明されるが、議論もどき向けの詭弁テクニックとしては「自分を一方的に立証責任を問う側に立たせ、相手に延々と立証責任を求め続けることで、相手を答えに窮させる手法」と呼ぶほうがより適切であろう。

簡単に言えば、相手に対して延々と「なぜそうなるのですか?」と問い続ければ、相手はいずれ答えられなくなるという原理を利用した詭弁である。

ここでシーライオニングに対する応答についての注意点をいくつか挙げておくと、まず「答えられそうな質問だからと思って答えても無駄である」という点である。上の例でも「7.5g未満」や「高血圧のリスク」などを答えているが、シーライオンは相手から何か返答があると、さらに立証のハードルの高い質問を投げかけてくるので、「あ、これはシーライオニングだな」と気付いた時点で応答を打ち切るべきである。

また、シーライオンは「相手を答えに窮させて自分の勝利を演出する」ことと同時に、「相手は自らの主張の立証に失敗したため、その主張は無根拠なものとして排除できる」ということを目的としている。ネットの男害オタがこの意味でよく使う言葉が「お気持ち」である。この「お気持ち」という言葉には「数字やデータでの立証に失敗した、ただの『お気持ち』に過ぎない無根拠な主張」という意味合いが込められている。そのため、男害オタによるシーライオニングに迂闊にいつまでも乗ってしまうと、最終的には「それはお気持ちですね」という勝利宣言を受ける羽目になってしまう。

§1-2 すっとぼけ/シュタる


「すっとぼけ」は要は「本当は知っているのに知らないフリをする」ことであるが、この手法は必ずと言っていいほどシーライオニングとセットで使用される。なぜそのようなことが起きるのかを簡単に説明しておこう。たとえば数学の教師が微分の説明をするときに、生徒がわざとすっとぼけて「ボクたし算もかけ算もわかりませーん」と言えば、教師はわざわざまず微分の前提知識としてたし算やかけ算から説明をしないといけないことになってしまう。シーライオニングの主要な目的が「相手に対する立証責任や説明責任の押し付け」であったことを考えれば、極めて不誠実な態度ではあるが「自分が知らないフリをすることで、相手が説明のために割く労力を増やさせる」という「すっとぼけ」は組み合わせるうえで極めて相性がいいことになる。そのため、詭弁が大好きな男害オタ達は「すっとぼけ」を「シーライオニング」に組み合わせながら多用するのである。

男オタクが多用する「すっとぼけ」の例は「シュタる」とも呼ばれる「これのどこがエロいんですかぁ~ 説明してくださいよぉ~」というものが最も有名であろう。もともとは絵を描いた人が意図的に絵にエロ記号を盛り込み、それを理解したうえで「エロい!」「たまらん!」「えちえち!」と男オタク達も楽しんでいたのに、他者から指摘を受けた途端に「エロ記号を理解できない人」のフリを始めて、相手に「これの何がエロいんですかぁ~ エロいというなら何がどうエロいのか説明してくださいよぉ~」と言い始める。「何がどうエロいのかの立証責任を相手に押し付けている」という点でもうすでにシーライオニングと併用されているのも特徴だが、そのためどのような説明をしても彼らがその絵をエロいと認めることはない。そして最終的には指摘された「エロい」という主張そのものを否定するために、「あなたの言う『エロい』という概念自体がもともと存在せず、あなたの思い込みなんじゃないですかぁ」と言い始めたり、お決まりの「じゃあこれが『エロい』というのは、あなたの『お気持ち』に過ぎないわけですね」と勝利宣言をするのがオチである。

この「シュタる」については、漫画でわかりやすく説明されたものがあるので、ぜひそちらも参考にしていただきたい。(作者:かえるさん)

エロ記号へのすっとぼけ(シュタる)の構図


エロ記号のすっとぼけに関する図解

引用元:https://twitter.com/orz404/status/1188476644232613888
魚拓:https://archive.is/zH1Pl

引用元ツイートを見ると、この「シュタる」の漫画の詳細を見ることができます。

また、「すっとぼけ」の亜種として「その主張を行う本当の理由を隠して建前だけで話す」という手法も存在する。たとえば作品に黒人のキャラクターが存在することに人種差別的な不満を持っているのに、あくまで「私は原作のイメージと合わないと言ってるだけですー」とだけ主張するようなケースである。これも所詮は本気で主張しているものではないので、真正面から受け止めて反論しても徒労になってしまうことが多い。

§1-3 デシベロン


「デシベロンって何だ?」とツッコみたくなるタイトルになってしまったが、こちらも「シーライオニング」と同じく、まずは例を見てもらおう。

隣の家の人(デシベロン)が外で音楽を大きな音で流しているので注意しに行く場面を想像していただきたい。

人間 すみません、音楽がうるさいので、音を小さくしてくれませんか?
デシベロン はぁ? うるさいのがダメだって言うのなら、うるさいの基準を示してくださいよ!どれだけうるさいかをちゃんと数値化して、80dBまでならセーフみたいに線引きしてくださいよ!そうじゃなきゃどこまで音を大きくしていいのかわからないでしょうがぁ!
人間 いや、何dBとかそんな細かく言う気はないんで、とにかくうるさくない程度に音を下げてくれませんか?
デシベロン うるさいかどうかの線引きを数字でできないんですね!じゃああなたの言う「うるさい」は何の基準もない、ただの「お気持ち」じゃないですかぁ!そんなのルールと呼べないので従えませんね!

この話なら音の大きさがもともとdBで数値化されていることもあり、最後に自分が「うるせぇ、じゃあ10dBにしろ」とでも言えば済むのだが、このデシベロン論法を数値化できないようなものに適用してくる男害オタがウジャウジャいるのである。「こんなバカな論法を使う奴がいるのか?」と言いたくなるかもしれないが、思い出してみてほしい。ほら、「それがエロいと言うのなら、エロの基準を示してくださいよ!どれだけエロいかをちゃんと数値化して、80点までならセーフみたいに線引きしてくださいよ!そうじゃなきゃどこまでエロくていいのかわからないでしょうがぁ!」と喚く男害オタをこの記事を読んでいる人なら誰もが一度は見たことがあるだろう。

一見すると、デシベロンとシーライオニングは区別がつきにくいところだが、シーライオニングが「相手への立証責任の押し付け」を主要な目的としているのに対し、デシベロンは「数字で明確に線引きできない限りは基準はないも同義であり、そのようなマナーやルールは守る必要がない」という主張を含んでいるところに大きな特徴がある。要は「ルールやマナーは対象とするものを数値で表現することができ、そのうえで強い根拠を持った一本の線でセーフかアウトかを明確に分けることができるものでなければならない。そうでないようなルールやマナーは存在したとしても守る必要がない」のように、ルールやマナーが存在するための前提条件となるハードルを極端に上げることによって、ルールやマナーの存在そのものを否定するのである。無論、その条件を満たさないルールは男害オタ基準によって「お気持ち」であると断ぜられる。

社会における最も基本的なルールである法律さえも一定の曖昧さを含んでいるのに、世界のあらゆる場面をそれぞれ一つの数字と一本の線で区切ることができると考えるその世界観の単純さもデシベロンの愚かなところであろう。

§2.味噌ク○論法とその派生形

§2-1 味噌ク○論法


まずこの章に入る前に読者に少し謝っておきたい。最初は「解像度落とし論法」と普通のタイトルをつけていたのだが、「デシベロンぐらいにインパクトのあるものが欲しいな」と思ったところに「味噌もク○も一緒」ということわざが頭に降りてきてしまい、「これだ!」と「味噌ク○論法」という命名になってしまったのである。実に申し訳ない。

この「味噌ク○論法」、ごく簡単に言ってしまえば「味噌がおいしいなら、ク○もおいしいはずでしょう?」のような論法を指している。しかしこれだけではあまりに具体性に乏しいので、より深く掘り下げていこう。

「味噌ク○論法」の特徴は物事に対する解像度を落とすことを利用して、本質的に異なるものを同じであるかのように見せかけることにある。ただシーライオニングが皆その手法を意図的に使っているのに対して、この「味噌ク○論法」は本気で物事の解像度が低い奴がまざっており、それがこの「味噌ク○論法」の使い手の熱烈な支持者層ともなっている。そのため、ネット論客的な人間の大半はこの「味噌ク○論法」を得意とすることによって、「本気で物事の解像度が低い奴」を自らの支持層としてガッチリと固めている。

さて、それではここで「味噌ク○論法」の実例を挙げてみよう。

味噌ク○ あなたは黒人隔離バスを許しますか?
人間 許しません 当然ではないですか
味噌ク○ ではあなたは女性専用車両を許しますか?
人間 ええ、許しますよ
味噌ク○ どうしてですか? どちらもマイノリティを別の場所に分ける手法ですよね、同じではないですか

例からしてなかなかレベルの高い「味噌ク○論法」となったが、この例では「黒人に対する差別によって正規の座席から排除されたもの」と「マジョリティ(男)からの加害(痴漢)から逃れるためのマイノリティ(女)の避難所」とを等価視するという解像度落としを行っている。言い方は悪いが、物事の区別が明確に付けられないタイプの人達にとって、こうした詭弁は実に気持ちが良く、それゆえバズりやすい論法でもある。「味噌ク○論法」はとりわけマジョリティ/マイノリティ問題において多用されがちである。もちろんそこでは、マジョリティとマイノリティの非対称性が考慮されることはない。そして無意味な男女「味噌ク○論法」が多用され、男オタクが喝采する図が尽きないのである。

この「味噌ク○論法」は「すっとぼけ」と融合して使われることもある。すっとぼけることで自分の解像度をわざと落として「味噌ク○論法」に持ち込むのである。

次の2つなどはその代表例として挙げてもいいだろう。

・萌えエロ広告と女性下着広告の何が違うんだ!どっちも性的だろ!
(性的客体化された広告と性的主体性に基づく広告を等価視させている)

・コンビニからエロ本をなくすなら生理用品もなくすべきだろ!
(エロく見るために作られたものと、自分が勝手にエロく見てるだけのものを等価視させている)

また、某弁護士による次の発言もまた典型的な「味噌ク○論法」だろう。

・まだセッ○スの合意ができていない女性に対するセッ○スの欲求とレ○プ欲求は同じである
(現段階においてまだセッ○スの合意がないのと、合意の無いセッ○スをしたいという欲求を等価視させている)

そして表現の自由戦士の「味噌ク○論法」の代表格と言えば、「タリバンとフェミニストを等価視する」というものだろう。タリバンは女性の主体性を全面的に否定する存在で、フェミニストは女性の主体性を最大限に重視し、そのために女性の性的客体化が当たり前になることを否定する立場である。この両者を等価視することこそ、「味噌もク○も一緒」そのものであろう。


柴田英里による太田啓子弁護士への嫌味


引用元:https://twitter.com/erishibata/status/1587434149404889088
魚拓:https://archive.ph/z8FJq

これは太田啓子弁護士がジュニアアイドルの撮影会が女児への性的虐待であるとの情報を受けて検索をかけたことに対する嫌味の文章であるが、これもまた解像度を下げて「性的な欲求で女児への性的虐待の場面を見ようとする」ことと、「虐待への怒りをもって女児への性的虐待の場面を探す」ことを等価視させようとしている。しかも嫌味の相手である太田弁護士がヘテロの女性であることを伏せているのも卑怯ポイントが高い。

他にも「多様な社会を認めるなら、多様性を認めないのもまた一つの多様性として求めるべき」というのも、「味噌ク○論法」の亜種のようなものとして考えていいだろう。多様性を認めないことを認めると、社会から多様性が失われ、多様な社会が作れないため、「多様性を認めないという多様性」は他の多様性とは等価視してはいけないということである。

§2-2 味噌抜き論法


主要な論点が複数あるテーマのとき、そこから重要な論点を意図的に外して、それをもとのテーマと同じに見せかけるのが味噌抜き論法である。

これは実例を見てもらうのが最もわかりやすいだろう。

パパミルク太郎によるミルキーへのパパミルク署名騒動のとき、批判者は「イタズラで署名をしてメーカーに送るのは迷惑行為である」と主張したが、当のパパミルク太郎はここから「イタズラで」という主要な論点を意図的に省き、「あなた達、署名を送るのは迷惑行為だと認めましたね」と言い放ったのである。複数の論点で構成されているテーマはそこから一部の論点を外すだけで全く異なる話になってしまう。それを意図的に行うのがこの「味噌抜き論法」である。さらにパパミルク太郎は「署名の意図が精液を連想させることを狙ったイタズラであることは明らかだ」と多くの人達から指摘されたにもかかわらず、「私の意図がイタズラであると証明できるんですか?」と「すっとぼけ」+「シーライオニング」で対応している。

いかにネット論客様達がこの記事で紹介しているネット詭弁を多用しているかを実にわかりやすく示す例であろう。

§2-3 「巨乳差別」論法


胸を性的誇張した女性表象を用いた広告に対して批判が起きたときに男オタクがよく言う「巨乳差別だ!」も実は「味噌ク○論法」の一種である。「主体としての胸の大きな女性を批判すること」と「胸の大きな女性の『胸』というパーツだけを取り出すように、性的に客体化(モノ化)した女性表象を広告などで公的な場所に掲げる行為を批判すること」を意図的に混同させることで物事の解像度を落とし、それによって本質的に異なる両者を等価視させている。ただし、「主体と客体」というテーマは実際に理解できている人が少ないうえに、本気で両者の区別がつかない人も散見されるため、ここでより詳しく見ていくことにしよう。

まず、みなさんは「女の胸はもともとエロいモノである」と思ってはいないだろうか。特に男性はそう思っている人が多いだろう。すなわち、「女の胸とは、とりわけ巨乳とは元来からエロいものであって、後天的にエロいと刷り込まれるようなものではない」と思っている人達が多くいるわけである。しかし、たとえば江戸時代の春画を見ると、女性の胸を描き方や扱われ方がずいぶんとおざなりであるのである。胸にエロ要素を全く見出してないと言えるほどではないものの、現代と比べると当時は「女の胸はエロいモノ」という概念は非常に弱かったことをうかがい知ることができる。すなわち、「女の胸はエロいモノ」という価値観は決して普遍的なものでも、生まれたときからそう信じているものでもなく、育っていく中で外部からそのように刷り込まれてきたものであることがわかる。

では、いったい何が私達に「女の胸は、とりわけ巨乳はエロいモノである」と刷り込んでいくのだろうか。そのうちの一つが「胸の大きな女性の『胸』というパーツだけを取り出すように、性的に客体化(モノ化)した女性表象」である。現実の人間が「『胸の大きな女性をエロいモノとして描く(=表象する)』という現実の行為を通じ、胸の大きな女性をそのように社会的に意味付ける」のである。より分かりやすく言えば「そう表象することによって『巨乳女性とはエロいモノである』と社会的に改めて意味づける」のである。そうしたことの積み重ねによって、「巨乳女性とはエロいモノ」であるという社会的な意味付けが定着し、誰もが「巨乳女性とはそういうものだ」と疑わなくなっていくのである。また、なぜそのような女性表象が広告となったときにとりわけ批判されやすいのかというと、広告になることで公的性が強まることによって、その女性表象の持つ「巨乳女性とはエロいモノ」であるという社会的な意味付けの効果もまた重くなるためである。

さて、ここで現実の女性に目を向けてみよう。現実の女性は本来は客体(=主体の認識・行為などの対象となるモノ)ではなく、主体性を持った存在である。しかしこの女性の主体性は、女性そのものが性的客体化されたり、または胸などの女性の身体のパーツが性的客体化されることによってどんどん削られていってしまうことになる。実際に現代においては胸の大きな女性は「エロいモノとして扱っていいモノ」として客体化されているがゆえに、つねに「エロいモノ」(=客体)として扱われることを余儀なくされ、「ただ単に体のある部位が大きいだけの女性」(=主体)として客体化から逃れて主体性を発揮することが困難になっている。実際に胸が大きいだけで「エロいエロい」と扱われたり、「卑猥だ!けしからん!」と攻撃されるなど、主体性のある存在としてではなく、「性的なモノ」として扱われてしまうのである。

すなわち、「胸の大きな女性の『胸』というパーツだけを取り出すように、性的に客体化(モノ化)した女性表象を広告などで公的な場所に掲げる行為」が批判されるのは、それによって「巨乳女性とはエロく扱っていいモノである」という社会的意味付けが改めて行われることによって、胸の大きな女性の性的主体性が毀損されることを防ぐためなのである。しかし、男オタク達は「胸の大きな女性の『胸』というパーツだけを取り出すように、性的に客体化(モノ化)した女性表象」と「現実の胸の大きな女性」という全く異なるものをわざと自らの解像度を落として等価視し、「(『宇崎ちゃん』や『たわわ』などの胸の大きな女性を性的にモノ化した)女性表象を批判するのは、現実の巨乳女性を排除するのと同じだ」という「巨乳差別!」という名の「味噌ク○論法」を駆使するのである。当然のことながら、「胸の大きな女性を性的モノ化した女性表象」への批判は、実在する胸が大きな女性の性的主体性を守るために行われているものであり、その批判が実在する胸が大きな女性の排除に結びつくのはありえないことである。そもそも女性による「胸の大きな女性を性的モノ化した女性表象」への批判とは、簡単に言えば「私達胸の大きな女性は『エロいモノ』(客体)じゃない!意思のある人間(主体)だ!」という叫びなのだから。

そしてこうした「巨乳差別」という味噌ク○論法を使う連中の中にワラワラといる「本当に何が批判されているのかわかっていない巨乳女性の味方のつもりの男害オタ」は胸の大きな女性のアカウントに押し寄せ、味方のつもりで「今日もエロいですね!最高ですよ!」と声をかけるのである。いったい何をか言わんやである。

§3.トーンポリシング


トーンポリシングとは何かについて自分の主張を述べた際に、横から「そのような言い方では理解されないですよ。もっと優しく言わないと」みたいなアドバイスめいたことを言ってくる行為である。もう少し意味を広く取って「やり方批判」と言ってもいいだろう。トーンポリシングを行う者は大抵の場合、「自分は中立ですよ」というフリをしながら近づいてくるのだが、実際にはそうではないことに注意が必要である。もし彼らの言うことを素直に聞いて主張の仕方を変えたとしても彼らが賛同者になってくれることは100%ない。彼らの目的はあくまで自分の主張をはっきりと述べることなく、敵と見なした相手を貶めることにあるのだから。たとえば「ヴィーガンは押し付けがましいから嫌いだ!」とトーンポリシングを行う男害オタは山のようにいるが、実際にヴィーガンがオタクに対して主義主張を押し付けてる場面などまず見ることがないし、さらにヴィーガンの誰もが口を閉ざしたとしても彼らがヴィーガンに賛意を示す可能性がゼロであることは簡単に想像がつくだろう。

なぜトーンポリシングという詭弁を行う者が少なくないかというと、このトーンポリシングという詭弁が「自分はどの立場にも与せずあらゆるものを冷静で俯瞰的に見ることのできる人間ですよ」というアピールとして機能するためである。そしてその副次的効果によって、「この人の言っていることは説得力がある」と思わせることができるためである。

もっとも2010年代前半には冷笑系・自称中立系などの間でトーンポリシングが隆盛を極めたが、最近ではその詭弁性が明らかになったことで見かける頻度はやや下がりつつある。しかし、2022年に起きたひろゆきによる沖縄の基地移転反対派への攻撃・揶揄は紛れもないトーンポリシングであった。

§4.ノットオールオタク


もともとは「全ての男がそうじゃない」を意味する「ノットオールメン」からの派生である。一般的には「男達は痴漢をやめろ!」というような女性からの主張に対して、「全ての男がそうじゃない」と女性の口を閉ざそうとするような行為を指す。ただし、女性差別的な主張をする男に対して、他の男性達が「おまえみたいな男と一緒にするな!」と怒る行為も「ノットオールメン」に含まれることがあり、その場合は前者を「悪いノットオールメン」、後者を「良いノットオールメン」のように呼ぶことがある。

さて、その派生形である「ノットオールオタク」であるが、要するに害悪男オタクの迷惑行為が批判されたときに「オタクみんながそういうわけじゃありませーん」という言い訳をすることを指すものである。しかし実際のところ「ノットオールオタク」を主張するオタクが「害悪男オタク」か「善良なオタク」のどちらに近いかと言えば、確実に「害悪男オタク」である。というのも、善良なオタクの人達の多くは害悪男オタクの狼藉に胸を痛めていることが多く、「ノットオールオタク」のような言い訳はしようとしないからである。そのため、もし「ノットオールオタク」を主張してくるオタクがいたら、「だったらそれをこっちに主張してくるんじゃなくて、実際に男害オタのところに行って『そうした迷惑行為はやめろ』と言ってこいや」とでも返してやればいいだろう。

§5.おわりに


私がなぜ「表現の自由戦士とはまともにやり取りをする必要がない」と主張するかと言えば、第1回の記事で指摘したように、彼らの根本的な考え方そのものがダブルスタンダードだらけであることに加え、今回の記事で指摘したように彼らが相手の言い分をそもそも理解しようとせず、詭弁以外で応答してくることがほとんどないからである。要するに彼らは対話の相手として極めて不誠実であって、話しても時間と労力の浪費にしかならないのである。彼らが「対話しましょう」と言ってきても、それは結局「俺達の詭弁テクニックであいつらを困惑させてファンから喝采を浴びてやろう」の意味しか持っていないのである。「対話をしましょう」と言いたがる詭弁使いの表現の自由戦士の中にはそうした魂胆を見抜かれて対話を拒否されることをもって、「あいつらは対話を拒否している」と主張するが、誠実な対話が行われるための前提条件をかなぐり捨て、詭弁にばかり拘泥しているのは彼ら自身なのである。

それゆえ、表現の自由戦士に対して真面目にリプを返し続けるようなレスバをすることは私はオススメしない。結局はシーライオニングに巻き込まれるだけであることが明らかだからである。しかし、詭弁とは一種のトリックであるため、1回のリプや引用で「このツイートはこの箇所が~~~のような詭弁になってる いわゆる○○論法というやつ」のように、トリックを見抜いて指摘するのは非常に有効である。そうした試みをくり返しているうちに詭弁に含まれるトリックを見抜く人も増えてくるという相乗効果も期待できる。詭弁などは所詮はトリックでしかないため、タネがバレてしまえば効果は薄まるものである。詭弁のトリックが見抜かれるにつれて真面目に相手にされる機会が急減したパパミルク太郎などはその代表だろう。

男オタクはしばしば日常でのコミュニケーションの機会が少ないがゆえにtwitterでも同様に語彙が少ないと言われるが、そのうえこの記事で示したような詭弁やク○リプ、言い返しのためだけの日本語として成立しているか怪しい文章もどきを多用していれば、日に日に言語能力が下がっていくのは当然の結果である。今やtwitterの表現の自由戦士は敵と見なした相手の文章を軽く流し読み、使えそうな詭弁を選んで発言しているだけのbot、人工無脳と変わりがない。あえてそのような男オタク達に対してアドバイスを送るなら、拙くてもいいからどんな相手と会話するにあたってもまず相手の言い分を理解しようと努力し、それに沿った返答をするように心がけることだ。とりわけ「主体と客体」のテーマは彼らがフェミニストと議論するつもりなら絶対に理解しておかないといけない概念だが、今まで「主体と客体」を正しく理解している表現の自由戦士を見たことがない。いかに彼らが(相手の意見に賛同するかどうかは別として)相手の言い分を理解しようと努めていなかったかの証拠である。今の表自男オタクは本人は詭弁を振りかざして「論破してやった」と思っているつもりが、「返答がまともな日本語になっていない」と相手を困惑させているだけである。まずその何かを貼り付けるような感覚で、「とりあえず思いついた詭弁で言い返せばいいや」という癖をやめるべきである。

ネット詭弁には他にもwhataboutismやストローマン論法など様々なものがあるのだが、この記事ではあえて表現の自由戦士が特に多用するシーライオニングを中心に、それをより深く掘り下げて紹介するものとした。また、ここで紹介した「味噌ク○論法」はよく使われる詭弁でありながら知名度が低く、その対応策もあまり知られていなかったため、この記事を通じてこうした詭弁に対抗するのに役立ててもらえるとありがたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?