パラリンピックの価値

パラリンピックを子供達に見せることは教育的な価値がある
って文言を最近よく聞く。
パラ観戦を巡るニュースが連日報道されているけれど、コロナが無かったとしても疑問が残る。

教育的な価値って何ですか?
「障害がある“のに”頑張っている選手は凄い」って子供達に言わせたいのかな。
それって障がい者を下に見た発言だなと悲しくなる。

障害があっても無くても人が努力する姿は美しいし賞賛されるべきであって、パラを観た子供が「街のバリアフリー化を進めよう」とはならないだろう。

誰だって得意な事、苦手な事がある。障がい者というラベリングの有無に関係無く得意な事で活躍して苦手な事は助けてもらう。それが共存社会のあるべき姿だと思う。
しかし今の世間は無意識に障がい者を下に見て私たち健常者の高さまで引っ張ってあげることが共存だと思っているのではないか。

私には自分の足が2本あるけれど 嘘かと思うくらい足が遅い。
パラの義足の選手は当たり前に私より足が速い。
生まれつき持った脚であろうと無かろうと「速いからカッコいい」ではダメなのか。少なくとも自分より足が速い選手を見て「大変なのに頑張ってるね」とは私は思えない。
というか私の身体は健康だが何一つ敵う競技は無いだろう。

余談だが私は障がい者の方が主体で働くカフェが嫌いだ。
障がい者が働くから
・安くて当然
・見た目が悪くて仕方がない
みたいな風潮が嫌だ。カフェの店員と客という対等な立場で正当に取引をしているのであってお布施をしている訳ではない。
シンプルに物が良ければ、その空間が素敵であれば店員さんの障害の有無なんてどうでもいい。正当な対価を払う。
それを障害を盾に商品開発を疎かにする姿勢に辟易する。
障がい者も健常者も障害を壁にしすぎない社会になって欲しい。

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