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【吃音エッセイ】「医者」という単語が言なかった英語の授業
高校一年生のある日の英語の授業中、今でも忘れられない地獄の瞬間がある。
小学校で吃音を晒すことにより多くの傷を負った経験のある僕は、中学入学以降、とにかく吃音を隠しながら学校生活を送っていた。あの手この手で吃音を隠し通していた。自意識に塗れた思春期を乗り越えるには何としてでも吃音を隠す必要があった。というか、隠す必要があると思い込んでいた。特に授業中に先生に当てられる時が吃音が出る最大のピンチで、気を付けないといけなかった。
しかし、その日の英語の授業では、吃音を隠せなかった。
その日の授業では、先生に当てられた人が、教科書に載っている重要単語の和訳を一つだけ答えるという時間があった。
その日、先生が当てたのは、僕の列の一番前に座っている生徒だった。
その瞬間、僕は自分が当てられることが分かり、心臓がドキッとした。その先生は前に座っている生徒から順番に当てていくタイプだったので、僕の列の生徒が当てられた時点で、自分も当てられることが確定し、同時に自分の答える単語が何なのか確認できた。前から五番目に座っていた僕は、そのページに重要単語として載っていた五番目の単語「Doctor」の和訳を答えないといけないことになった。
僕はこの後、先生に当てられたら「Doctor」の和訳を答えればいい。
つまり「医者」とだけ言えば僕の出番は終わりだ。
しかし、僕は直感的に「医者」と答えられない気がした。自分の吃音の症状を事細かく把握している僕は、この状況でおそらく「医者」と言えないし、どう足掻いても吃音を隠し通せない予感がした。
前の席の四人が答えている間に、僕はその直感が外れていることを期待して、頭の中で自分が取れる行動のシミュレーションしていた。
まず、僕は母音から始まる言葉が言えないから、ストレートに「医者」とは答えられない。最初の「い」の音が出ないということはほぼ確定だ。
しかし、言えない言葉を答えないといけない場面なんて、それまでも何回かあった。そんな時は、答えを同じ意味合いの言葉に言い換えることで対処していた。だが今回は違う。「医者」の言い換えが思いつかない。強いて言うなら「お医者さん」と言い換えられるが、それも結局母音から始まる言葉なので、今回はボツだ。
しかし、僕にはまだ策はあった。今回のように言い換えすら効かない場面も既に経験済みだ。そんな時は「分かりません」と言うことにしている。基本的に高校の先生が生徒を当てる時は結構難しい問題で、分からなくてもおかしくないことが多かったので、言い換えができない時は「分かりません」と言っていた。すると次の生徒に回答権が移ったり、先生が他の質問を交えながら答えに誘導してくれたりするので、何とか吃音を隠しながら回答までたどり着けたりする。だが、今回はこれも使えない。高校生が「Doctor」の和訳を分からない訳がない。「分かりません」と言おうもんなら裏口入学を疑われてしまう。だから今まで幾度となく使ってきた吃音逃避術「分かりません」も今回はボツだ。
しかし僕はまだ諦めない。「分かりません」も不自然だと判断した時は、寝たフリや聞いていなかったフリをして次の人を当ててもらったり、自分の言える言葉でわざと間違えるという白々しい演技をして乗り越えたこともある。ところが、今回はそれすらも使えない。寝たふりをするには今からじゃ明らかに遅いし、聞いていなかったフリをしてもやはり「Doctor」の和訳くらいパッと答えられるはずだ。「医者」を間違えるということは、ふざけているか裏口入学の二択になる。寝たふりも聞いてないふりもボツだ。
「医者」が言えない、言い換えもできない、「分かりません」も「寝たふり」も使えない。間違えることもできない。色々考えた挙句、直感通り今回ばかりは吃音を隠す術がないことが分かり絶望した時、一つ前の生徒がちょうど答え終えていた。そしてその瞬間、先生が「○○、Doctorの日本語!」と僕を当てた。その瞬間、身体中に汗が滲み、心臓の鼓動が明らかに速くなったのを感じた。
まず僕は、ダメもとで「医者」と答えることにチャレンジしてみたが、案の定やっぱり言えなかった。どうしても最初の「い」が出ない。それでも言うしかないと思い「い、い、い、、」と言おうとするが、喉から詰まるように息が漏れていくだけで、音が出ない。その間にも汗は出る。どんどん心臓の鼓動が速くなる。十秒くらい音にならない息を絞り出している僕を、先生や一部の生徒が不思議そうに見ている視線を感じる。「○○、Doctorやで。Doctorの日本語。聞いてる?」先生が言う。分かってます。分かってるんです。今自分が当てられていることも、答えが「医者」であることも全部わかってます。でも出ないんです。心の中でそう思いながら、身体からは更に汗が湧き出て、心臓の鼓動は異常に速くなる。「い、い、い・・・」言葉は出ず、息だけが漏れ続け、周りの生徒からの不思議な視線を感じる。明らかに自分の顔が熱くなっているのが分かる。もうこの時間に耐えられらない、次の人に回してくれ、と思っても、先生はまだ僕に向かって「○○、Doctorの日本語!」と言う。20秒くらいの間に3回当てられているが、僕はどうしても「医者」と答えられない。僕は混乱し、もうどうにでもなれという思いで「ド、ド、ドクターです・・・」と言った。「Doctor」の和訳として「ドクター」は無理があるのは自分でも分かっている。それでも「医者」という言葉が出ない、「わかりません」も「寝たふり」も使えない以上、苦し紛れの「ドクター」でこの耐えがたい時間を終わらせようとした。先生は「Doctorは和訳になってないで。もういいわ、じゃあ次○○」と後ろの生徒にあっさりと回答権を回した。一件落着とは言いにくいが、とりあえず僕の地獄の時間は終わった。
その後すぐ僕の後ろの生徒が「医者!」と堂々と答えた。すると先生は僕に「○○、Doctorは医者やぞ。」と言った。分かってる。分かってるけど、吃音で言葉が出なかっただけ。その時僕は大量の汗を流しながら、羞恥心の爆発により心が傷ついた音が身体中に鳴り響いていた。
昼休み後の英語の授業。普段は教室中に気怠さと眠気が充満していて他の生徒が何を答えようと誰も気にしていない雰囲気だが、その日だけは全ての生徒が、数十秒沈黙した挙句英語をそのまま英語で答えるという僕の意味不明な珍プレーを、心の中で嘲笑っているような気がした。今まで必死に隠し通してきた吃音を隠すことができず、大げさにも僕の学校生活が終了した感覚になった。僕は、何の捻りもなく前から順番に生徒を当てるという先生の単純な思考回路、よりによって「Doctor」が当たってしまう自分の運の悪さ、そもそも「Doctor」という誰でも分かる簡単な単語が重要単語として高校の教科書に載っている教育指導要領、考えつく限り色んなものを恨んだ。恨むべきはそんなものではないのに、当時はそんなことにも気づかず、異常とも言える自意識と、呆れるほど高いプライドを守ることしか頭になかった。
その日、帰宅した僕は、すぐ自分の部屋に入り、全ての荷物を床に投げ捨て、制服のままベッドにうつぶせになった。そして、無意識に「医者!医者!医者!医者!医者!医者!」と大声で叫んでいた。僕は決して「医者」と発音できない人間ではないことを確認したかった。誰もいない一人の部屋だと「医者」くらい簡単に言えるのに、何故か教室で自分に矢印が向けられた瞬間に「医者」が言えなくなる。まったく吃音というのは厄介で不可解だ。
僕はしばらくベッドにうつぶせになったまま、吃音を完全に治せる「医者」が現れることを心に願いながら、いつの間にか気持ちよく寝落ちしてしまっていた。
それから数年経ったが、僕が知る限りそんな「医者」は現れていないし、僕の吃音が治ったわけでもない。でも、あの教室で自分がどう振舞えば良かったのか、あれから色んな経験をした今の僕なら何となく分かる。