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マイノリティは善人でないといけないのか、優秀でないといけないのか
「知的障害者はピュアな心を持つ」
「発達障害者は突出した才能を持つ」
「LGBTは消費市場として大きな可能性を持つ」
「ゲイや女装家はトーク上手で楽しませてくれる」
「企業上層部で活躍する女性は、女性ならではの感性を生かしている」
こうした言説の一つや二つを聞いたことのある人は多いのではないでしょうか。
マイノリティが多様性の輪に入れてもらうためには、マジョリティの得になるプラスαの何かを求められる空気感があります。
プラスαの何かまでいかなくでも、マイノリティとして生きていると、品行方正であることや努力していることを社会に求められていると感じたことのある当事者は多いのではないでしょうか。
私自身レズビアンや発達障害などのマイノリティ属性を持ち、当事者のコミュニティによく出入りしているのですが、真面目な人ほど社会の要求を敏感に感じとっては応えようと苦しんでいるように感じられます。
私はそんな社会の風潮に疑問を抱いています。
マイノリティとして生きるのは決して楽なことではありません。
みんなと同じ土台に立つには、通常の何倍もの労力が必要だったりします。
偏見から自分を守るためには、嘘や建前で身の事情をかためることもときには必要になります。
それは少なからず心理的負荷がかかりますし、その状態が日常的になってしまうと心は削られていきます。
(宝塚大学の調査によると、ゲイやバイセクシャルなど性的少数者の男性は、異性愛の男性に比べて自殺を図るリスクが6倍も高いということが明らかにされています)
ただでさえ困難とともに生きている人に、多数派側にとってメリットになりえる何かを求めることは、多数派側の無自覚なおこがましさがどこかにあるように私には思えます。
もしも、これを読んでいるあなたがマイノリティには良い人や優秀な人が多いなという印象を持っているなら。
それはマイノリティの生存戦略である可能性を考えてもらいたいのです。
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