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「発達障害に見えないね」よりも嬉しい言葉がある



20代半ばに差し掛かったあたりからでしょうか。
初対面で「発達障害に見えないですね」と言っていただける頻度が増えました。

まあ時間を重ねるうちに少しずつこちらの特性に気づいていき、「なるほど発達障害ってこういうことだったんですね」と納得されることが大半ですが(笑)。



健常者からの「発達障害に見えないですね」という言葉に複雑な感情を抱く当事者もいらっしゃいますが、私はシンプルに感想の一つだと捉えています。

私が見た目においてよく言われる「ほっそりしてますね」とか、稀に言っていただける「セルフカットが上手ですね」とか「そのファッション似合ってますね」といった、深い意味のない感想とほぼ同列に受け止めています。



私は発達障害者のコミュニティによく出入りしているのですが、当事者の私から見ても、少し話しだだけでは「発達障害に見えない」当事者は結構います。
なんで健常者の方が、初対面の場で私に「発達障害に見えない」という感想を抱くのも、十分ありえることと思っています。




ま、たまーーーーーーに、ほんとに稀にですが、

「え、ほんとうに障害なの?(自称してるだけじゃない?)」 
「今ってなんでもかんでも障害になってるよね。(障害にして甘えているんじゃない?)」
※カッコ内は私の被害妄想含む

という意味で「発達障害に見えない」を言う人もいますが。

そういう意見にいちいち真剣に向き合っていては心が持たないので、よほど切羽詰まって障害特性を説明しないといけない状況じゃない限り、聞き流しています。

精神衛生の保全は大事。





ところで最近、ある人からの言葉でとても心にしみたものがあります。それは、

「(多動OLさんは)自分の特性をよく理解して、上手く付き合っているなと思う」


これが私にはものすごく嬉しかったのです。
一瞬キュンとしたくらい。


健常者と同じ土台に立つのに、これまで血の滲むような努力をしてきたし、今も人一倍の努力をしています。

書籍を読み漁り、当事者のブログを読み漁り、自助会に積極的に足を運び、使える制度を調べ尽くし、医療や福祉を使い倒し、数々のライフハックにトライアンドエラーを繰り返し…

身近にロールモデルもいない中、手探りで必死に進んできて今に至ります。

試行錯誤の日々の中で、失敗も、悔しさも、人に見せない涙も、数え切れないくらいありました。


0を1にする努力や、1を100にする努力は認められやすいんだけど、マイナスを0に近づける努力ってなかなか見てもらえないんですよね。


だからこそ、発達障害が「ある」と認められた上で「特性をよく理解して上手く付き合っている」と言ってもらえたことが、人知れぬ努力を汲んでもらえたようでものすごく嬉しかったのです。



おしまい。