考察から観察へ「あなたは身体だろうか?」

普通、人は自分のことを身体であると思っているらしい。
「あなたは身体だろうか?」

ある人は「分からない」と言うだろう。

非二元論(アドヴァイタ)や仏教を知っている人は、「否」と答えるかもしれない。

もし、「身体≠私」ということが、本当に理解されれば、人は悟ったと言われている。

ここで、そもそも「私」とはなにか?が問題になる。

人は「自我がある」と思っている。
しかし、その自我はあると教えられているだけで、本当には知らないのだ。

もしそれを知っていれば「道」「内」を発見していると言えるだろう。
なぜなら、教えられて知ることができるものは「概念」に過ぎないからだ。
概念には、真実はない。

しかし、誰でも「私がある」ということは、自明なこととして知っている。
その「私」を、教えられて自我であるとしているのだ。

その自我という概念は、どのような概念でも同じだ。
名前、住所などの個人情報、職業、所属、所有物。
そして、記憶
それらはすべて概念に過ぎない。

概念が、私だと言えるだろうか?
この考えられた、中身が不確かな、有ったり無かったりするものが、私だろうか?

寝ているとき、考えることはしない。
その概念が無いとき、私はいるだろうか?

「いない」と言う人はいない。
では、その「私」はなにか?

概念とは形である。
そう、「身体」という形でもある。

では、身体は概念だろうか?

概念(考える)でもある。
しかし、私たちは五感で感じることもできる

では、どこに自分を感じるだろうか?
それが本当に私だろうか?

これが、「観察」する「マインドフルネス」である。

どう感じるかは、人それぞれだ。
誰かが「ハート」が中心だと言ったとしよう。
または、別の人は「頭」であると。

しかし、それを聞いた人にとっては、どちらも「概念」に過ぎない。どちらにも真実は無いのだ。

自分で確かめなければならない。
そのために、まず教えられて、すっかり信じていることから離れなければいけない


ここでヒンドゥー教(アドヴァイタ)での思惟方法を、紹介しておこう。
※ニサルガダッタ・マハラジを参考にしている。

「あなたの身体は、どこから来たのか?
母親の子宮から産道を通って生まれてきた。
始まりはたった一個の受精卵であった。
その精子と卵子はどのように作られたのか?
両親の食べた食物の栄養素からである。
それでは、あなたは両親が食べたパンや野菜や、動物の肉でできているのだろうか?
それには同意しないだろう。
では、あなたはなんであるか?」

人は自分のことを知らない。
しかし、知らないとしても、なんらかの自分を前提にして、様々なことを考えている。

時間は過去から未来に流れているだろうか?
それとも、時間は未来から過去に流れているだろうか?
これについては、ここで考察している

あなた(の肉体)が死んだあと、世界はどうなるだろうか?

夢を見ているとき、あなたはどのような身体を持っているだろうか?
寝ている肉体はどこにあるだろうか?

これらについて、事実として知ろうとしても、さほど意味はないだろう。
しかし、これらの考えによって、自分をなにと見なしているのかは分かる。

このように、自分についての自明と思えるものを疑って確かめていくこと。
これが、「自己探究」である。


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綱川哲郎|瞑想と対話
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