意味の分からなさ「広がる沈黙」
いつからか、考えるということをあまりしなくなった。このときあたりだろうか。
【考えるとき、頭を空っぽにする】
そのため、疑問に浮かばないことは気にしなくなった。
その代わり、問いかけに対しての真剣さが増した。
思考を見れる(気づける)ならば、考える必要はない。
なぜなら、思考の原因は無知であり、無知が見られれば、原因から解消出来るのだから、思考をする必要はない。
思考に気づけなければ、思考は止められない。
つまり、疑問は次から次へと浮かんでくる。
疑問に答えを与えても、そこには疑問と答えがセットであるだけで、疑問は解決されない。
だから、気の済むまで探求しなければいけない。
気づくことができるようになるまでは、考える必要があるのだ。
それも、他人の頭(教え)で考えるのではなく、自分の内から発せられる疑問について考える。
インスピレーションに従って、疑問に耐えるのだ。
思考に気づいて、原因を見れると、考えても分からないということは無くなっていく。
ただ見ればいいのだ。
もちろん見ることに躊躇することはあるかもしれない。
そして、その代わり、意味が分からないという実感が大きくなっていった。
言語化することもできるだろう。
しかし、本当にそれを言おうとすると、意味が分からないのだ。
それがなにについてなのか、重要ではない。
なんでもそうなのだ。
意味がないとは、必要がないということだろう。
疑問が無いことを考える必要がない。
では、否定的な思考停止とはどう違うのか?
思考停止とは、信念を変えないということだ。
つまり、こだわりである。
もっと言えば、むしろ考え過ぎだ。
意味が分からないとは、知らないとは違う。
理解できないというのでもない。
疑いようもないことを、言葉にするすべがないのだ。
意味が分からないとき、思考(概念)が全体性に溶けてしまう。
そのとき、思考が生じる隙間がなくなる。
思考の形がなくなって、考えようがないのだ。
「語りえぬものものには、沈黙しなければならない。」
それが、あるがままにあること。
「しなければならない」のではない。
ただそうなるのだ。
なにがあるがままにあるのか?という疑問は成り立たない。
なにがというものではなく、あり方なのだ。
私はそれでも、習慣的になにか(意図的に)言おうとしていた。
それで伝わることもあるし、むしろ見えなくなることもある。
当たり前の、自明なものほど伝わらない(必要ない)。
愛することは、当たり前のことだろうか?
いくらでも沈黙していよう。
むしろ沈黙が伝わるかもしれないのだから。