「信仰の人」
私にできることは、ただ明け渡すことだけです。
どうか、どうか。。
なにを躊躇することがあるだろうか?
たった一つのことでいい。
完全に明け渡すのだ。
完全な愛があなたを待っている。
難しいことだろうか?
あなたは、笑い、泣き、感動し、躍動し、共有し、愛する。
そして、それら全てを明け渡すのだ。
そしてまた、同じように与えられる。
なぜなら、あなたは、あなた(神)に明け渡すのだからだ。
こんなに幸せな生き方があるだろうか?
この私は嫉妬さえする。
なんで私はこんなに苦しみに耐え、苦労して修行しているのに、楽な世間で生きる人たちが、まさか。。いや、この私の境地のほうが素晴らしいに違いない!
覚えておきなさい。
この不完全なものに、完全さを求めるのは間違いである。
しかし、完全なものには、むしろ完全さを求めないことが間違いである。
なにが完全なものなのか?
それはあなたには重要ではない。
あなたに必要なのは、識別(洞察)する智慧ではない。
その疑いを完全に明け渡すことだ。
これに似たような話を聞いたことがあるかもしれない。
ある男が、苦労の末に聖者を見つけ、このように嘆願する。
「私はあなたに帰依します。私は無力で、神をはっきりと見出すことができません。どうか恩寵を授けてください。」
聖者は言う。
「恩寵はすでにある。」
男は再び願い出る。
「どこにでしょうか?私にも分かるようにはっきりと示してください。そのために、長い旅をしてあなたに見つけ出したのです。」
聖者は言う。
「あなたはまるで、首まで水に浸かりながら喉が渇いたと叫んでいる人のようだ。ただその水に頭を沈めればいいのだ。それが難しいことだろうか?」
男は、しばらく沈黙し、再び言う。
「私は明け渡しています。それでも、渇きが癒えないのです。」
聖者はなにも言わない。
男は引き下がらずに言う。
「私は明け渡しています。だから、恩寵が必要なのです。これ以上、どうすればいいのか分からないのです。どうか、なにか言ってください。」
聖者は言う。
「本当に明け渡している人が、そのように言うだろうか?」
男が去ったあと、聖者はそばにいる人に言った。
「ただ静かに在りなさい。神がすべての面倒を見てくれます。渇きが恩寵なのです。」