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人生への期待について
自分の周りにいる人には幸せであってほしいし、好きな人たちが笑っている姿を見るのが好きだ。お互いの想いを伝え合う時間はかけがえのないものである。人事という仕事もそのひとつで、そういうところが好きだからやっている。
しかし、感情をさらけ出してぶつけ合うという点において思うことがある。僕は他者に対して激昂することがない。怒りをぶつけるような経験も長らくしていない。これは育ってきた環境がそうさせるのかもしれないが、進んでそうした強い感情をさらけ出すことをしない。
「つなしは社交的で誰とでも仲良くできるね」と言ってくれる人は多いのだが、その実は非常に内向的な性格なのだ。なぜ僕は、他者に感情をぶつけるようなことをしないのか。
根本的なところで、「他人の人生は他人の人生でしかなく、自分がどうこうしようと最後はその人自身が決めることだ」という諦念があるのだと思う。
考えてみれば自分の人生も他人の人生も「自分にはどうしようもないもの」である。すこし好意的な解釈をすれば「邂逅」である。人生は偶然の出逢いによって形成されていくもので、無理にコントロールしようとすれば思い通りにならなくて苦しむ。一方で、人は何かを制御せずには耐えられない生き物なので、人生に対して自律心を持てることも大切である。
大きなところでは、僕は人生に期待しすぎたくないのだろう。自分というちっぽけな存在にはどうしようもない状況を、これまでにいくつか経験してきた。そのたびに「人生はあらゆる現実を突きつけてくるだけで、それらにどのような意味付けをして対処するかは、自分次第である」という諦めをつけることで、ここまで来たのだ。
なぜ、人生に過度な期待を抱きたくないのか。
なぜ、他者に感情をさらけ出すことを厭うのか。
このふたつの疑問に対しては、ひとつの共通点があると見える。
心の奥底で、自分以外の誰か/何かに裏切られるのが怖いのだ。自分のすべてを賭した想いが叶わないこと、その未来を想像してしまうだけで腰が引けてしまう。卑小で薄弱な心がそこにはある。
先日観た映画でこんな一幕があった。
妻や子のことを想って自分の言いたいことを抑え、優しく振る舞いながら生活していた夫。しかし妻は言う。
「あなたは優しくて、できた人間よ。でも、夫でも父親でもない、たまたま同居しているだけの人。私にも子どもにも興味がないから優しくしていられるんでしょ?優しくするだけが父親じゃないのよ」
そうして別れを切り出されたのだった。
妻はきっと、夫に感情をあらわにしてほしかったのだろう。自分に興味があれば心を開いてくれるだろうと期待していたのだが、それが叶うことはなかった。夫は、妻と子に気に入られるように感情を抑えて優しく接していたのだが、それは彼女が求めていたものとは違っていた。
人から嫌われたくないがために、感情をぶつけない。期待外れになることを自分勝手に予見して、他人の人生に向き合わない。そういう弱さがこの夫から感じられたと同時に、僕自身の心の中にある弱さを見せつけられた気がしたのだった。
僕が他人に感情をぶつけることがないのは、もしかすると、その人に本気で向き合っていないからではないのか?他人の人生に期待することを、過剰に恐れているからなのではないか?そんなことを思う。
他人の人生を背負えるほどの驕りはない。「他人の人生は他人の人生でしかなく、究極は自分にはどうしようもないものだ」という諦念はなくならないだろう。
しかしながら、自分の人生にはもっと正直な感情で生きようと思う。喜怒哀楽も全力で生きて、将来笑い飛ばせる経験にする。損得ではなく、どちらを選んだらよりわくわくできるか?そんな選択軸で生きよう。
他人の人生を生きるなんてことはできやしない。自分の人生に真正面から向き合うことからはじめよう。
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