志賀直哉、今もつながる尾道の人々との縁 ~直哉没後50年追悼イベント開催~
六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる。その頃から昼間は向島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。それがピカリと光って又消える。造船所の銅を溶かしたような火が水に映り出す。
『暗夜行路』の一節だ。”小説の神様”と言われた、志賀直哉が亡くなって今年で50年になる。大正元年秋から2年中頃まで尾道千光寺山の中腹の長屋に居を構えていた志賀直哉は『暗夜行路』の草稿を、ここからの風景を眺めながら書いている。(下の写真は現存する長屋跡と、そこからの眺望)
2021年10月23日(土)、尾道市の重要文化財である尾道商業会議所にて、直哉没後50年追悼『志賀直哉と尾道』、追悼談話会と特別展示が行われた。志賀直哉が尾道にゆかりのある作家であることは承知していたし、長屋にも何度も訪れたことがあるが、志賀直哉が尾道の人々のやさしさ、人情に触れ合い、尾道を愛し続け、その縁が現代にも脈々と紡がれていることは、今回のイベントで初めて知った。
このブログでは、今回のイベントで語られたこと、今回のために整理された資料をもとに、以下の目次で綴ってみようと思う。
目次
・隣の親切な婆さん
・直哉と瓢箪、商人の町尾道
・直哉と小津安二郎
・昔も今も変わらぬ、尾道の人の良さ
隣の親切な婆さん
小説『暗夜行路』の主人公、時任謙作は、志賀直哉自身だと言われており、『暗夜行路』には尾道の暮らしぶりが数多く描かれている。小説の中に登場する”隣の親切な婆さん”も実在した人物で、尾道が誇る名店『桂馬蒲鉾商店(以下、桂馬)』創業者、村上桂造氏の祖母マツさんだ。
そもそも、直哉が尾道に来たのは、小説家になることに反対した父親とそりが合わず、傷ついた心を癒すためだったと言われている。当初、鳥羽に行こうと予定していたのを、友人が『尾の道(当時、“の”が入っていたらしい)』の車窓からみた風景をしきりに賞賛したので尾の道にしたとのことで、尾の道行きは単なる偶然だったようだ。尾の道駅に降り立った傷心の直哉(当時29歳)は、千光寺を目指すため子供に案内してもらう。道中、穏やかな口調で応対する女性たちの親切を感じながら見つけたのが冒頭で紹介した長屋だ。この長屋から見える景色は非常に眺めが良く、しかも故郷、宮城県石巻に似ており、この場を借りることにした。三軒長屋の東端、六畳・三畳の二間と台所のある土間で便所は共用。ただ、場所は決まったものの、男一人。身の周りのことで苦労していたところ、出会ったのが長屋の隣に住んでいた”隣の親切な婆さん”こと、マツさん。食事、洗濯など甲斐甲斐しく面倒をみてもらうことになった。
時折、祖母マツのところに訪ねていたのが孫の桂造。のちに『桂馬』を始めることとなる桂造も、この長屋で志賀直哉と出会い、それが今に続く『桂馬』との交流のきっかけとなる。直哉自身の借家住まいは僅か3~4ケ月だったようだが、直哉がその後2度尾道に来た時も、マツはホウレン草などを持って直哉がいる宿舎に飛んでやってきたそうだ。今回のイベントに参加した『桂馬』三代目女将で、村上桂造の孫にあたる村上芳子さんによると、2度目に尾道に来た時は直哉とマツは一緒に千光寺に行って写真をとり、仲良くゆで卵を食べた。また、桂造も東京の志賀直哉邸に行った際は、下駄をはき、尾道弁丸出しで、蒲鉾を携えていたそうだ。喜ばれた直哉からは写真や書籍をもらうなど、桂馬と直哉の付き合いは続いていく。
上の写真は、志賀直哉が桂造に一緒に写真に写ろうと誘った際、桂造が「恐れ多い」と固辞したものだそうで、頑固で有名な志賀直哉が笑っている写真として貴重なものだ。直哉の視線の先に桂造がおり、さらにその先に尾道の風景を重ねあわせていたのかもしれないと、村上芳子さんは嬉しそうに語っておられた。
直哉と瓢箪、商人の町尾道
短編小説『清兵衛と瓢箪』も、尾道でみた光景をヒントに書かれたと言われている。イベントに参加した、『藤原茶舗』店主の藤原唯恭さんによると、『藤原茶舗』は、もともとの店名が『瓢箪屋』。創業した大正2年当時は、瓢箪が随分とブームだったようで、子供の背丈ほどある瓢箪を筆頭に瓢箪番付がつくられるほど愛好者がいたそうだ。今でも、店の陳列ケースの片隅には八寸足らずの瓢箪がひっそりと置かれている。
『桂馬蒲鉾商店』『藤原茶舗』いずれも大正2年(1913年)創業で、尾道商店街に店を構える。両店舗とも創業108年を数えるが、尾道には他にも100年を超える店が数多くある。「尾道百年店舗図」パンフレットによると、2018年3月時点でその数30店。開港850年を超えた歴史を持つ町、尾道。「政治は広島、経済は尾道」と言われただけあり、商人の血が受け継がれた町ということがわかる。余談だが、広島銀行の発祥も尾道。そして、住友銀行を設立するかどうか決めた会議は尾道で開かれたそうだ。この地域で、商売の中心が尾道だったことがうかがえる。
直哉と小津安二郎
尾道を代表する映画と言えば、小津安二郎監督の『東京物語』だ。実は、この作品にも志賀直哉が関係している。今回のイベントで講師を務めた、尾道学文庫代表の山口真一さんによると、戦争に従軍した小津安二郎が、戦場に持参した本が『暗夜行路』。尾道ロケ実現には、小津が敬愛してやまない直哉の推薦があったとのことだ。おのみち文庫VOL5には、二人の関係を次のように記されている。
内側からにじみ出る自然な美を尊重し、過剰なもの・装飾的なものを嫌悪した志賀直哉。芸術至上主義を厳しく批判、生活の優位を主張。平和な家庭生活を心がけた人生でした。直哉の主張に心底共鳴したのが小津安二郎です。『暗夜行路』の舞台、尾道で撮られたのが映画『東京物語』。尾道ロケ実現には敬愛する直哉の推薦がありました。笠智衆(『東京物語』の父親役)は、志賀直哉が撮影の見学に来た時のことを話しています。常に撮影中は、絶対的な存在である小津が、志賀直哉が現れると、顔をあからめ、生徒が特別な恩師に接するように、丁寧に対応しているのをみて、笠智衆は驚いたそうです。
志賀直哉のおかげで、『東京物語』が尾道で撮影されたというのは初めて知った事実。平成25年の、山陽日日新聞にも、二人のエピソードが掲載されている。
昔も今も変わらぬ、尾道の人の良さ
尾道で最近よく耳にするのが、「尾道の人の良さ」についてだ。今年1月、尾道にUターンしてから、移住された方々と会話する機会が増えたが、皆さん口を揃えて言うのは”尾道の人に惹かれて移住を決めた”ということだ。もちろん、尾道のノスタルジックな雰囲気、瀬戸内をのぞむ風景、のどかな気候なども要素としてはあるのだろうが、この地に根付く人々の温かさはそれにも増して魅力あるもののようだ。たしかに、商店街でもどこでも、親しみをもって声をかけてくれるし、近所の人のお裾分けも日常茶飯事だ。直哉にとっても、尾道での道案内の少年がそうだったし、”隣の親切な婆さん”マツさんもしかり、その孫、桂造さんもそうだった。そして、今もその血が脈々と紡がれているということなのかもしれない。
イベントの来賓で来られた、尾道市立大学の藤沢毅学長の挨拶に、尾道市民の尾道での満足度の話があった。尾道市民の尾道市への愛着度は、「感じている、やや感じている」をあわせると、なんと81.8%。さらに、尾道市民であることの誇りでは、「感じている、やや感じている」が66.9%にのぼる。尾道市民が地元を愛しているかがうかがえる。こうした土壌があって、移住者のような外部の方を受け入れる”ゆとり”が生まれているのではないだろうか。そして、これは、かつて志賀直哉を受け入れた頃もそうであったように、尾道の先人から代々、尾道市民が受け継いできた気質のようなものではないかと思う。
<参照>令和3年度 尾道市市民満足度調査https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/29659.pdf
今回のイベントは、尾道学文庫代表の山口真一さんと、尾道観光協会理事、加藤慈然さんほかの尽力で開催にたどりついた。関係者の皆様の、尾道の文学にかける熱い想いには、ただただ敬服する。今回のイベントで、尾道が誇る文豪、志賀直哉を通じ、改めて尾道の人の温かさを知り、それを紡いできた町であることに誇りを感じた。そして、今後もそういった「人の良い町」であり続けたいと、尾道市民として思いを強くした次第だ。
尾道は「映画のまち」「ラーメンのまち」「サイクリングのまち」ほか、色んな顔があるが、何と言っても「文学のまち」である。千光寺公園から、山を降りる道「文学のこみち」には、尾道にゆかりのある文学人の石碑が連なっている。志賀直哉の『暗夜行路』の一節も、尾道の名誉市民、小林和作画伯の手により記されている。是非、文学の町、尾道に足を運び、瀬戸内の穏やかな風景を楽しんでいただくと同時に、尾道の人の温もりにも触れていただけたらと思う。
最後まで読んでくださり有難うございます。文中、一部、敬称略となっておりますがご了承ください。
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