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写真によって拡張される日常。

写真が趣味になってから変わった自分の世界

日中の空気が春の色を帯びてきた最近。

写真が趣味になって、1年が経とうとしています。

写真をほぼ毎日撮るようになって、気づいたのは「自分の日常」が拡張されるようになったこと。

普段目にも留まることのない何気ないモノやヒトが自然と入ってくるようになりました。

見るというよりは、あっちから目に飛び込んできてくれる感覚に近いかも。

普段目に入ってこないモノの中にたくさん美しいものがあるって気づかされる、

それが大きな変化なんだろうなあ。

普段となんら変わり映えしない部屋に日が入ってきて、

自分の部屋って案外イケてるなと思ったり、

部屋から出て普段と変わりない空がキレイだなって思ったり。

前では見逃していたたくさんの景色が目に入ってきてくれるように。

そんな矢先、「ブルーピリオド」という漫画に出会い、

主人公と同じこと思ってるってちょっと嬉しくなっちゃいました。。。

日常の中にあるきっかけ

毎日一緒の部屋のようで、配置や日の入りが違かったり、

毎日同じ部屋からの眺めのようで、朝焼け・夕暮れ・夜のあかりの度合いが違かったり。

それだけでいつもと変わらない日常が輝いて見えるようになったり、

そのまた逆もしかりで、なんか気持ち悪いな、嫌いだなって思ったり。

「日常」は代わり映えのしない日常のようで「刻一刻と変わる一瞬」でしかないんだなあ。

こんなことを考えるようになりました。

無理に「自分を変えないと」、「自分の環境を変えないと」って思う必要もなければ、

「自分ってつまんないな」とか「今日つまんないな」って思うことって灯台下暗しだって。

その些細なきっかけってきっと自分の日常の中に、また日々の生活や行為にあると思っていて、

自分を省みるファインダーとしての機能を写真は持っているんじゃないか。

最近は自分がひしひしと感じることでもあります。

(まだまだ実践できているとは自分では言えない、、、)

でも、それだけでは足りず、もちろん大きな枠で捉えた時の「日常」ではなく、

全く正反対くらいの非日常の中で気づけることはたっくさんあります。

その日常と非日常を相対化できるツールも写真だと最近は自分の中でテーマになっています。

ただ消費される写真ではなく、

自分の(できれば他人にとっても)骨となり、血となり、肉となる写真を撮っていきたいですね。

自分にはまだまだだなあと思う時ばかりですが。

言葉で伝えるのが得意じゃなくて、

でも写真だったら言葉じゃ伝えれるものがあるってこともあるって助けられていて、

写真に出会えたことよかったな。

それと、写真って人にも影響を与えるもので、人の日常に傲慢にも切り込んでいく時もあるなあと。

心に何かしこりを残す写真って時々あるんですよね。

でも、それが写真の美しさであり、力であり、人間くさいなあって思ったり。

写真のもつ「しこりを残す能力」については、また書きます。

最後に、Lightroom整理してて、気に入った写真たちをコラージュしてみた。


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