推し事に関するワークライフバランス
前回の記事と、あと、ワールドカップを観てて考えたこと。
タイトルは「推し事」を「お仕事」とかけて「ワーク」ライフバランスとしたのですが…
もちろん推し事は「ワーク」じゃないし、むしろ「ライフ」の方に入るわけだけど、でも、推し活もやっぱりバランスが大切だよね…という話です。
W杯がはじまって、手のひらを返したようにワクワクしておいて何だけど、自分としては、始まるまで、正直、全然気持ちが盛り上がってなくて。
代表のサッカーにワクワクしないとか、全然アントラーズの選手を呼んでくれないとか、そういう言い訳はあったんだけど、そもそも、最近は代表の試合も観られる状況なら観る、という感じだし、アントラーズの試合に至っては、そもそもDAZNに加入していないんだから観られる状況にない、という体たらく。Jリーグタイムすらたまにしか観ない。サポーターだなんておこがましくてとても言えない。
いつからこんなに気持ちが離れてしまったんだろう…と考えてみたとき、細かな理由はたくさんあるけど、いちばん大きなきっかけは、2017年のJ1リーグで、ずっと首位だったアントラーズが、フロンターレにじわじわと差を詰められ、最終節に大逆転で優勝をさらわれたこと、このトラウマが最も大きな理由だったんだろうな、と思う。
(未だにその時の記事を見ることができないのでリンクは貼りません…)
この頃は本当に一生懸命アントラーズを応援してて、子供が生まれた直後だったからスタジアムにはあまり行けなかったけど、DAZNとかテレビとかで試合はかかさず観ていたし、もちろんファンクラブにも入っていたし、ユニフォームも毎年誰にしようか悩んで購入して、グッズもたくさん買ってた。
アントラーズというチームに対して、すごく当事者意識を持って応援していたし、自分の生活に密着していたと言える。
こういう状態だと、もちろん、勝ったときの喜びは何物にも代えがたい、格別なものになる。一方で、負けたときや、好きな選手が移籍したときなどの悲しみや喪失感も非常に大きくなる。つまり、振れ幅が大きくなる。
そして、特定のチームを応援しているファン、サポーターはわかると思うんだけど、喜べる機会よりも、悲しみや喪失感を感じる機会の方が、大抵の場合、はるかに多い。
チームを愛すれば愛するほど、感情の振れ幅が大きくなって、情緒不安定になる。うまくいかないことまで含めて、チームを愛せればよいのだけど、やっぱり負けることはつらい。自宅から2時間かけてスタジアムに行って、寒い(もしくは暑い)スタジアムで観戦して、帰りは渋滞を含めて3時間くらいかけて帰宅しなければならない、それで試合が惨敗だったりすると、お金も時間も労力もかけて、自分は一体なにをしに行ったのだろう…という気持ちにもなる。シーズンを通してみたら、たかが1試合負けただけなのに。
2017年、前述したような劇的な大逆転で優勝をさらわれたときは、本当に全く動けなくなって、そのまま、日が暮れて真っ暗になったリビングでただただずっと横たわっていた。涙も出なくて、ただ、ものすごい喪失感だけがあった。
その後はしばらくサッカーのニュースすべてを意図的に避けていたし、フロンターレのユニフォームである水色を見るだけで具合が悪くなってたな…
タイミングがよいのか悪いのか(笑)、その次の日が、ビルボード東京でクラムボン with 徳澤青弦カルテットを観に行くことになっていた日で。
(自分が行ったのは12/3ですが映像は12/6のものです)
これ本当にすごいライブだったんだけど、ただ…もう少しまともな精神状態で観たかったよね…
でも、大阪のお友達夫婦といっしょに観られて、彼らも他チームのサポだから気持ちを分かってもらえて、それで救われた部分もたくさんありました。
その後、時間が経つにつれて、だんだん日常を取り戻しつつあり、翌年の新シーズンが始まる頃には「今年こそ!」という思いで応援していた…とは思うんだけど…
でも、いま振り返ると、このときから、「絶対優勝するんだ!」って信じて応援することが怖くなってしまって…
少しずつ、本当に少しずつではあるけど、チームを応援する熱意が下がっていって、距離をとるようになっていったように思う。
(チームがしばらく優勝から遠ざかってる、ということも大きいけど…)
これは、実際、とてもさみしいことで、自分としては前みたいに熱意をもって応援したくても、自分のことながら、これは意志でどうにもならない。
恋愛とかもそうだと思うんだけど、頭で考えて好きになるわけじゃないし、いくら自分が「好きでいたい」と思ったって、気持ちが離れてしまったらどうにもならない、ということはいくらでもあるよね。
「推しを失う」というケースは、推している対象がなんらかの理由でなくなってしまう(形を変えてしまう)という場合と、自分の気持ちが冷めてしまう場合とがあって、どちらも自分の意志でどうにもならないし、どちらも悲しいことだと思うのです。
ただ、推し側の問題の場合は本当にどうしようもないけど、自分の感情の方の問題の場合、そうならないように、未然に、「自分にとって適切な推し方」というものを常に考えておく、ということはとても大切だし、予防措置になるような気がする。
前述の自分のケースだと、今振り返れば、チームを愛しすぎていたし、優勝できると期待しすぎていた、ということが、この燃え尽きの原因だったのだろうと思う。
前に自分で書いた通り、推し活は非日常であるからこそすばらしいのに、気がついたら、それが日常になりすぎていたね…
↑ 5年前の自分に言ってやりたい。
推し事はお仕事ではないのだから、それがワークになってはいけない。それはあくまで非日常であるべきで、だからこそ、何にも代えがたい、生きる目的になるのです。
ということで、ワールドカップでクロアチアにPKで負け(記録上は引き分け)て敗退してしまったときも、素直に選手や監督を称えることができたし(手のひら返しをしている自覚は大いにあります)、割とすぐに切り替えて、推しの写真を眺めて心を落ち着かせて眠ることができたのは、逆に言えば、今はサッカーとほどほどのよい距離を保てている、ということなのかもしれない。
以前ほどの熱意がないのは、自分としては寂しい部分もあるけど、悪いことばかりではないのかもしれないな。
さて、そういうわけで、推しへの熱意が高すぎると日常になりすぎて疲れてしまい、燃え尽きてしまうので、ほどほどの距離を保つことが、長く推しを好きでいることにつながる、という話だったんだけど…
これが前回の記事。
その前の記事でも、
そう、全然距離などとれていないし、グループを愛しすぎている。そして、それがわかっていて、自分から傷つきに行っている。
むしろ、ちゃんと傷つくことが自分の願いだったようなところすらある。
でも、アントラーズのときと違って、今回は、ラストワンマンが終わっても相変わらずBuddha TOKYOの音源を毎日聴いているし、らいさんのことはますます大好きで8時19分ツイートを続けているし、全然燃え尽きてない。
自分が思うに、それは、この1ヵ月ちょっとの間も、自分の日常は日常で大切にしていたし、ひとりよがりな期待をして見返りを求めたりせず、ちゃんと人を好きになって、その人(=推し)の決断を尊重できたから、ショックは受けても、好きな気持ちや応援したい想いは燃え尽きてないのかな、と。
燃え尽きてないどころか、毎日好きすぎて、火加減に気を付けないと…という感じ。気を付けます。
推しの脱退・卒業や、推しグループの現体制終了や解散がつらすぎて、それでリスクを分散したくてDDをやってたところも多分にあった自分が、ここまでちゃんとまっすぐに、最後まで、応援できたことって、たぶん初めてだったんじゃないかと思うんだけど、それが、とてもうれしくて。
ちゃんとヲタクできたよ、って胸を張りたい気持ち。
自分もまたこんなふうに応援することができるんだなって再認識できて、自分自身も幸せな気持ちになったよ。ありがとう。
これからも、バランスを意識しつつ、自分ができる限りは精いっぱい推して、推しとともに喜び、時に傷つきたい。そう思えるような相手がいるってことがとても幸せです。