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パニック発作を起こしている私のそばでかがむ、駅員さんがくれた選択肢——
2024年7月16日(火)
忘れもしないあの日。私は山手線の駅のホームにいた。電車が到着するまで、スマホを見たり、周りの景色を見たりする余裕もなく、ただ亡霊のように過ごしていた。
足元をふらつかせる自分。近くにいる人が、少し、また少しと私から距離を取っている。嗚呼、私は亡霊ではなく、きちんとこの世に存在しているひとりの人間なのだと自覚する。影があり、実体がある。臓器がある、動いている。私以外の大人は皆、背筋が伸び、しゃんとしているように見える。
私も、きちんとしている人間でいなければ。
よろよろと足元を動かしてしまえば、不審者だとおもわれてしまうかもしれない。私はきっと顔色もよくないし、人相もたぶんよくない。いいところなんて何もない。だからせめて、人様に迷惑をかけないようにしなくてはいけない。
ふらつく足をなんとか止め、私は列に並び、目を、雑巾を絞るように瞑る。今日も出勤したら、やらなければいけないことが山積みである。
会社に着いたらまず、先方から来ているはずのメールを返信しなくてはならない。この前発注したものが朝一で届いているかも確認しなくては。社内会議の資料もまだ不十分だ。今度のイベントの冊子も印刷できていない。午後には外部の人とオンラインミーティングがあった気がする。Slackもほとんど返せていない。夕方は学生の前で話さなくてはならないんだっけ。準備している時間なんてない。もう、ぶっつけ本番でいくしかない。
あと、昨日も会議で指摘を受けてしまった。またメモを見返さないと。上司はいつも機嫌を悪そうにしている。先輩も忙しそうで頼りづらい。元はといえば私がもっと早く相談しておけばよかったのだ。もっともっと早く出勤して、これからも仕事を済ませていかねばならない。なぜなら私は、他の人より無能なのだから仕方がないだろう。
それでも、せっかく、やっと、正社員になれたのだ。
もう正社員なんて無理だとおもっていたけれど、ここまでやっと戻って来れた。30歳も過ぎたんだ。ここで駄目になったら、私は本当に———
ぼんやりと、緑の線が映る。なまぬるい風を吹き上げ、電車が到着した。人々が順々に吸い込まれていく。押し込まれるようにして私もそこに流れていく。いつものこと。これからもずっと続くことだ。
ちょうど、目の前の人が席を立った。だが、あと一歩のところで座れなかった。横入りされてしまったのだ。いや、私が躊躇して、座る意思を見せなかったのが悪いだろう。なんだって私はこう、鈍臭いのだ。後ろの人に肘打ちをされる。電車が大きく揺れ、体が押される———
「あ、」
私は溢した。こぼれて、しまった。これもいつものことだ。頬を伝う重い雫。乾いた肌の皺に、軋むように入り込む水滴。顎に集まっていくそれを手の甲で汚くぬぐう。それをまた目の周りに刷り込むようにして紛らわそうとした。
出勤するたびに涙が溢れてしまう。
どうしてこんなことで泣いてしまうのだろう。「泣いている」という感覚とは少し違う。ただ瞳から雨漏りをしているような感じだ。ひねって止める蛇口が、どこにも見当たらず彷徨っている。
いい大人が電車内で泣いている。私はどうにか深呼吸でもして自分を落ち着かせようとする。周りの、誰の目も見ることができない。誰かに見られているかもしれない。だけれど、誰とも目を合わせなければ、私は私を「見られている」と証明されることはない。ただ溢れる。零れていく。
*
*
*
四年制の大学を卒業して、普通に就職できた。だけれど、すぐにうつ病になってしまった。転職したけれど、また駄目。正社員はもう一生無理だとおもい、ずっとアルバイトをしていた。だけれど、今の会社でやっと、アルバイトから正社員登用を果たしたのだ。
もうあとがない。もうあとがないんだ。泣いていたって仕方がない。泣けば許される、なんて、何十年前に終わったとおもっているのだ。
それでも出てきてしまう。熟れるように溢れてしまう。臓器が蠢き、吐き気がする。全身の血が氷のように凍てついていく。膝が小刻みに震え、ふくらはぎが鉛のように重くなる。両手が痺れる。胃液が、ぐつぐつとマグマのようにあがってくる。
膝に手をついてしまった。
電車内で、そんな人は誰もいない。皆行儀良く立っているし、座っている。誰も変な動きはしない。私だけ、規則から外れ、おかしなことをしている気がする。
息が加速的にあがっていく。ぽつりと胃液が一滴、あがってきた。吐瀉物の、つんとした酸っぱい臭いで脳が壊れてしまいそうだった。さっきまで血が冷たかったのに、急に全身に大量の汗をかく。それも額とか脇とか、いちばん、気持ちの悪いところだ。耳がちぎれるように痛む。腹のあたりをずっと誰かに殴られているような感覚。頬が爛れていく。
「もう無理だ」
"どこかの駅"に到着し、扉が開いた。私は勢いよく電車から飛び出す。すぐにその場で膝をついて、胃液を二粒か、三粒ほどこぼしてしまった。
立ち上がれない。
こんなところでうずくまっていては、迷惑になってしまう。誰かに見られてしまう。誰かに盗撮されてしまうかもしれない。私は、嫌われるのが怖い。好かれなくてもいいから、ただ普通に生きていたかった。
膝と手を地面につきながら、必死にホームの真ん中のあたりまで移動し、私は陰で体を丸めた。パニック発作だった。
息ができない。もう、この発作を何百回と経験している。もう散々だ。これで死ぬわけがないとわかっていながら、毎度「死ぬ」と本気でおもう。落ち着かせようとすると落ち着けなくなる。それもわかっているのにできない。眼球を誰かに加減知らずに握りつぶされているような感覚だ。柔らかい果実を潰したときのように、勢いよく目から水滴が飛び散る。口の中に溜まった唾が地面に落ちる。それらが混ざり合い、目の前がどんどん黒くなっていく。
「はやく、会社に行かないと——」
立ち上がらないと。ここで立ち上がれなければ、私はもう全てが駄目になってしまう。そうおもっていたのに、数人の大人に私は囲まれていた。そのひとりは、駅員さんだった。
「あとはこちらでやりますので皆さん大丈夫ですよ」
駅員さんが周りの人に声をかけているようだった。嗚呼、私は全身が恥部になった気分だった。あたたかい人間の手が、私の肩にやさしく乗る。
「にぃちゃん。しばらくここにいて大丈夫だ」
駅員さん。駅員さんであることだけわかった。ズボンの感じが駅員さんだった。顔を上げて、表情など確認する余裕はない。私はただその場で甘えることしかできなかった。
「今日はどうしたんだ?」
そう聞かれた。私は躊躇なく、吐き出すように、ただただ打ち明けてしまった。
会社に行くのが怖いこと。会社の人が怖いこと。仕事ができない自分が怖いこと。仕事ができない自分を憎んでいること。他人より劣っている自分が悔しいこと。この会社が続かなかったら、きっと自分はどこへ行ってもやっていけないこと。いい大人なのに、いつまでも泣いてしまうこと。
ひとつ溢せば、また後ろで順番待ちをしていたかのようにどんどんと想いが溢れていった。すると駅員さんがまた、柔らかく口を開いてくれる——
「大丈夫。大丈夫。俺も仕事できねえよ。同期はみんなできるやつらばっかりでさ。俺なんかずっと、この仕事5年くらい変われてない。にぃちゃんはえらいよ。生きててえらい。俺なんか毎日怒られてばっかりだよ。人間そんなに、頑張りすぎなくていいんだ」
声を聴いて、心を聴いて、瞳が、落ちてしまいそうなほど濡れている。ただ少しだけ、ぬるく、あたたかくなっていく。ごめんなさい。ごめんなさいと私はしきりに謝り続けた。
「大丈夫。大丈夫。にぃちゃん。本当に、生きてるだけでえれぇよ。会社に行けても、行けなくても、にぃちゃんなら大丈夫だ」
仕事で私を救ってくれただけかもしれないけれど、駅員さんは私にたくさん声をかけてくれた。どんな道を、選択肢を私が選んだとしても、肯定してくれた。
いや——少し違うか。
それら選択肢が、全て肯定されるものと信じて疑わないことを、もう何年も心に沁み込ませてきた「重み」があった。
「にぃちゃん、ここまで生きてきて本当にえらいな。会社の最寄りどこだ?そうかそうか。車内で倒れて救護が必要になって電車が止まったらまずいとおもってここで降りてくれたんだな。やさしい人なんだな。ありがとう。すげえやさしいよ。にぃちゃんは大丈夫。にぃちゃんはやさしい人だから絶対大丈夫だ」
会社に電話俺がかけてもいいぞって言ってくれたけれど、ちゃんと自分ですると答えた。そしたら、そうかそうかと背中をさすってくれた。何分もかかってしまったけれど、呼吸が落ち着いてきて、よし行くぞとおもって私は立ち上がった。駅員さんの顔は見れなかったけれど、どこかでまたお礼がしたいとおもって、名札の名前だけ見て覚えた。
一緒に、次の電車が来るのを待った。さながら、親に守られている子どもだった。恥ずかしくてたまらなかった。でももう、それでも項垂れるほど感謝するしかなかった。とんでもなく掬われて、糸のように水滴が風で泳いでいく。
電車が来る前に、駅員さんは他のお客さんに呼ばれて行ってしまった。ただ去り際、にぃちゃんなら大丈夫と、もう一度言ってくれた——
鮮明に、緑の線が映る。みずみずしい風を吹き上げ、電車が到着した。人々が乗り込む。深呼吸をし、一番最後に、ゆっくりと私は乗車する。
頭の中がからっぽになった。何も考えられなかった。ただゆっくりと、身体に刻まれているかのように会社まで向かった。
会社の最寄り駅まで着くと、また結局涙が溢れてしまった。ただ会社の前で涙を止めた。苦しくて怖くて仕方がなかったけれど、その日、私は何事もなかったかのように会社に行って働いてくることができた。この先も頑張れるか頑張れないか、頑張る必要があるかないか、わからなかったけれど、私は、あの駅員さんみたいな仕事ができるようになりたいと馳せる——
私は翌朝、向かった。
脇目も振らず電車から飛び出た駅は、『JR山手線 恵比寿駅』だった。駅のホームをくまなく探したあと、改札の方まで向かった。そこにいた、また違う駅員さんに聞くと、朝は裏のポジションにいるとのことで、お会いできなかった。
私は会社終わり、また恵比寿駅で降りる。今度こそと思い、改札に向かうと、まるで一度見たことがあるかのような表情に、私は反射的に「言葉」を溢す——
「昨日ホームで助けていただいたものです。本当にありがとうございました」とお礼を伝えた。
何か感謝として物も準備してお渡ししようかとも考えたが、客からそういったものは受け取りづらいかとおもい、それはやめた。
駅員さんは笑っていた。また笑ってくれていた。表情は見れていなかったけれど、"また"、笑ってくれたのだ。駅員さんは暗闇を越え、光を抱いた心を携えているように見える。
「にぃちゃん。無事でよかったよ」
たくましく、あまりに柔らかくやさしい表情と声と言葉に、私はまた溢してしまいそうだったが、なんとか留まる。ただお礼を伝え終わった帰り道、自然と涙が溢れてきた。でもこれは、前進で、勇気あるものだとおもった。
私はよく、
「つらい」と「頑張っている」とおもってしまう。
「つらくない」と「頑張っていない」とおもってしまう。
そういうのからもう、はやく卒業したいとおもった。「自責」で自分は奮い立たない。「もうあとがない」と誰が決めたのだ?世間が、正社員として働くことしか認めてくれない気がしていた。誰がそんなことを言った?すぐ泣いてしまう自分が情けなく、酷く弱い生き物だと決めつけていた。私は自分の心と、もっと向き合うべきであった。「頑張りたいこと」は、いったいなんだったのか。
結局あれから数ヶ月後、私はその会社を退職した。適応障害と病院で診断を受けた。私は会社勤めできなかった。ただ今は、ずっとやりたかった書く仕事で大成するための道を、"自分で選んでいる"。
もちろん今も苦しく、つらいことも多い。あれからもまた日常の中でパニック発作が起こる。それでも乗り越えて、何度でも私は自分で決めたレールに戻ってきたい。
足元をふらつかせない。いや、ふらつかせたっていいのだ。自分の行き先を、自分の意志で設定していく。鈍行でも急行でもなんでも大丈夫だ。緊急停車することもあるかもしれない。そしたらたくさんまた、足元を確認したらいい。
自分の目指す「駅」を見失わない。
ただこれからも、私は恵比寿駅に、ときおり寄り道をするだろう。
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