斎藤茂吉「思出す事ども」全文(附「悲報来」)
好きな作品なのですが、青空文庫にはまだ掲載されておらず、掲載本も微妙にアクセスしにくい(図書館と古書流通はあります)ため、気軽に人にお勧めするために入力しました。
・底本は『新学社近代浪漫派文庫19 島木赤彦 斎藤茂吉』です。
・個人の片手間入力で、校閲も入れていないため、学校のレポート等に安易に使用するのはお勧めしません(ちゃんとした原文に当たりましょう)。
・一部、現在の道徳観念にそぐわない可能性のある言葉がありますが、底本のままに掲載しています。
・先師=伊藤左千夫
思出す事ども 斎藤茂吉
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いま僕は長崎の寓居にあつて、参考書もそれから覚え張もないゆゑに、先師について何か書かうと思うても混沌として纏まりがつきにくい。先師は食物に執着をもつてゐて、方々の料理を機会に応じて食べ歩いてゐたと思ふ。いつか古泉千樫君と僕とを連れて浅草奥山の汁粉屋に這入つたことがある。ここは有名なところだぜと云つて這入つて、ざふに餅をただ一椀づつ食べて出て来た。けれどもああいふ肥つた体格をもつてゐられたから、天麩羅、豚料理などを好かれたが、それは旨いには旨いが何処か俗なところがあるといつてゐたのは、茶の趣味から来てゐるのである。茶は自慢の茶碗でいろいろ僕らにも飲ませたりした。小便の近かつたのは茶を嗜んだせいがある。一しよに歩いてゐるとたびたび共同便所に寄るのが例であつた。あんなに茶を好いても夜分眠られないといふやうなことはなかつた。歌会の席上でも肘枕をしていびきをかき出すことが多い。この点は同じく茶を多く飲んでなほよく眠る島木赤彦君に似てゐる。晩年に茅場町の住宅、無一塵庵を蕨桐軒君に売つて、邸内の小さい茶室の唯真閣に大概ゐた。桐軒君と碁を打つてそれに賭をして、負けたものは豆腐だの納豆だのを買ひに行くので、その納豆を好んで食べてゐたさうである。五六年前からだんだん悪くなつた頭の具合がどうもよくなくて、その頃では作歌も尠く、小説も書かれなかつた。有栖川宮を悼奉つた長歌は、あれは寝ころびながら口から出るのを桐軒君が筆記したのである。ずつと年が溯つて、日露の役が済んで今は故人の足立須賀児君が凱旋して来たとき、無一塵庵で歌会をやつたことがある。その時僕はまだ歌の習はじめの頃で、はじめて歌会に出席したのであつた。蕨真だの、長塚節だの、石原純、三井甲之、増田八風などの先輩に初めて会つたのは其時の会である。おくれて香取秀真氏が来て長塚氏の旅の歌の批評をして、『君の近ごろの歌はみなよい』と云つたことだの、記念に皆が歌を作つて大きな紙に寄書をしたとき、長塚氏が小一時間ばかり歩いて来て歌を拵へたことだの、石原純氏が今晩は出来ないといつて歌を書かなかつた事だの、三井甲之氏の歌は、『歌をよめこそ』といふ結句であつたことなどが想出される。その時、茶飯と満洲料理とが出た。満洲料理といふのは豚汁であつた。それから明治四十四年ごろ、これも今は故人の湯本禿山君が上京した時、出来たての唯真閣で夕飯をたべた。その時もいい豚汁をたべさせた。禿山君は酔に乗じて、常陸山梅ケ谷取組行司の真似をやつたり、身を離さず持つて歩く筆で歌を書いて、先師から『君の字は少し俗だよ』などと云はれたことを思出す。みんな過去のことで今はおぼろおぼろになつてしまつた。それでも大きな顔に皺寄せて如何にも旨さうに物を食べる先師が割合にはつきりと面影に立つてくる。遠く長崎に来て、寂しい生活のうちに過去相をおもひ浮べて一種の悲哀にひたることも、僕は不自然だとは思はない。
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先師の為事のうちで、訓詁考証の『学』などには見るべきものがあるまい。それはその筈である。先師は黽勉して文献を渉猟するといふやうなことはなく、万葉集を講ずるにしても、考・略解・玉の小琴などは所持してゐながら面倒がつて参覈することをしない。そして古義一点ばりで講じて行つた。そして古義の説の腑に落ちない場合には自説として異を樹てた。その自説のなかには思切つた独断の説があるけれども、それを樹てるまでには、幾日も幾日も読味ひてからの末であつて漫然として言放つのではない。今から思ふと万葉集の歌の芸術上価値批判の点につき、先師の心は余程高級処に坐してゐた。晩年に於ける先師の批評眼は古来の万葉学者の中にあつて群を突抜いてゐた。それが、「万葉集新釈」も第一巻にとどまり、その一巻の評釈も約十年かかつて飛び飛びに書いたものゆゑに、やや統一を欠き、第二巻以下の歌につきては折々の談片に先師の説の特色を僅かにとどめてゐるだけで、万葉短歌の自選さへ成就せずに歿したのである。それを僕はひどく残念に思つてゐる。先師の歌論を蒐輯しようと欲した時、「万葉集新釈」だけは、古来の文献を参照して、増補しようと思つたことがあるが、今はそれも出来ない。先師はあんなに肥つてゐて豊かでおほどかなる肉体をもつてゐたが、あれで神経が鋭く、直截であつて、仮借せずに急所に突入するところがあつた。歌の『厭味』が心ゆくばかりに分かりきつていたのは此に由因するに相違なく、憎悪の念が強く、旧友から誤解を受けたりしたのも此に由因してゐる。あの神経をもつて一首の短歌を幾日もかかつて読味ふのだから、いい批評も亦出る筈である。先師の古歌の講義は、注釈書を当にせずに直接本物にぶつかる流であつた。ただ正岡先生の言だけが種になつてゐると看ればよい。それに楽焼趣味を交へて、それが正岡先生に無い好い点でもあり、又悪い点でもある。正岡先生歿後、三井甲之などから、『左千夫がいよいよ春園へ後もどりした』などといはれたのも此楽焼趣味の点に就てであつただらう。先師は最初春園と号してゐたのである。
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おなじく雋敏であつても、正岡先生の方は理智的であつて、先師の方は抒情的だと謂つてよい。正岡先生は当時に於ける『理想』すなはち『主観』の句の厭味多きことを識つて、それをしりぞけようとした。これは根本の人格に本づき、経来つた生活要約に本づき、それから疾病に本づいている。正岡先生は仰臥漫録のなかで、芭蕉の『五月雨をあつめて速し最上川』といふ句は到底、蕪村の『五月雨や大河を前に家二軒』といふ句の進歩したのには及ばないと云つてゐる。先生は芭蕉の句中の『あつめてはやし』の主観句に厭味を感じてゐるのである。けれども正岡先生は芭蕉の句に流れてゐる一種の顫動と謂ふやうなものを感得することが出来なかつたやうに思はれる。そこで、『あらたふと』とか、『むざんやな』とか、『ありがたや』などといふと唯それだけで不満足を感じたらしい。これが先師になると余程趣が違ふのであつて、『声調のひびき』とか、『叫び』などの説を唱へて、句の意味合ひよりも一種の顫動に重きを置いた。それゆゑ蕪村より芭蕉の方を上位に置いてゐる。それから人生とか宗教とか信仰とかを云ふやうになつたのは、近角氏あるひは新仏教の諸氏との交流に縁つた点もあるが、つまりは先師の性格に本づくのである。正岡先生の作は輪廓が明瞭で線が直線的で寧ろ堅い方であるが、先師のは輪廓がおぼろで線が波形で寧ろ豊かで柔かい方である。先師が森田義郎氏と争つた時、川柳家で『へなづち』狂歌の創立者である阪井久良岐氏が、先師の作物を『うつとり趣味だ』と云つたことがある。正岡先生や長塚氏になると孤独にも堪へ得るし、忍苦し得る方であり、理智で律して行くのであるが、先師は孤独では居られず、苦しめば祈る方である。晩年に甘い恋をしたのもそれである。抒情詩人としてよく、小説つくりとして未だ達しなかつたのもそれである。晩年に赤彦や茂吉や千樫、憲吉などが先師に異説を以つて向つた時、先師は諸々方々の友に其を訴へてゐる。それから、『長塚君、僕は愈孤独になつたよ』と訴へてゐる。独逸留学中の石原純氏にまで遥々と訴へてゐる。そのころは決して僕等の歌を褒めるやうなことはなかつた。明治四十五年ごろ、前田夕暮君が僕の歌と長塚氏の歌とを一つ二つ抜いて文章世界で評釈したことがある。そのとき先師は『ふん、成程奴等の好き相な歌ばかりだ』と云つてのけた。純で一徹であつた為めにいい加減では済まされず、同一歩調でなければ気が落付かず、歌に『左千夫選』とあるのは、保証に立つやうなものだから、左千夫選と署してゐないものには責任を持たないと云つて、雑誌アララギを創刊するとき、選歌欄、放縦欄の二とほりの欄を設けて歌を掲載したのは先師の考によつたのである。門人を可愛がつたのも皆同じ心に本づき、憎み出すと峻烈であつたのも矢張り同じ心に本づいてゐる。それは傍観者からみれば滑稽に類してゐる点もあつたであらう。
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僕は学校の帰途に本所茅場町にまはり歌稿を目の前で見て貰ふのを例としてゐた。三十首ぐらゐ持つて行つて三首ぐらゐ採つてもらひ、その三首を大切にしてまた次の日新作を持ち行つては幾つか採つて貰ひ、それを溜めて雑誌に載せて貰ふのである。『先生この歌を採つて下さい』といふと、ざつと歌を見つめてゐながら『斎藤君さう強ひてはいかんよ』といふ、さういふ問答などもあつた。ときには一首を吟味するのに三四十分間もかかる事がある。どうなるかと首をのばして待つてゐると、『諸君の歌に同化するまでにひまが要るからね』などと云つて、『かう直して採つておかう。どうだ賛成するかね』『これは棄ててもよからう』こんなことも云はれる。帰りには大抵赤電車に乗り、それにも後れて泊り込むこともあつた。古泉千樫君が上京してからは二人集ると直ぐ歌を作つて先師のところへ持つて行くのを常とした。沢山の数を持つて行つて僅かしか採られない時にはしをしをとして帰宅して、その夜はなかなか眠られない。さういふ時には又起きて作歌するといふ具合であつた。当時の歌壇では毎月の歌評や歌壇一覧といふものがあつても決して僕等仲間の事は論じなかつた。内証で僕等の歌を読んでは居ても其を云々することが何となし恥の様な気もしたであらうし、又頭から眼中に置かなかつた連中もあつたであらう。結果として僕等の作物を黙殺して居つたのである。然るに先師の歿後数年にして、アララギの歌風が天下を風靡してしまつたのであつて、斯る事は先師の夢想だにもしなかつたことであらう。さうしてアララギの歌風の斯くの如き流行は、本髄の流行ではなくて一首の偏癖から成る枝葉の点にあるらしいゆゑに、若し先師が生きてゐたら、『なるほど奴等の好き相な歌ばかりだ』と評したかも知れない。僕等が少しづつ目ざめて来て本髄に近づきつつあるのに、いち早くもアララギの歌風を難ずるの声がそろそろ聞こえ出して来た。若し先師が生きてゐたら、『それ見たまへ奴等には到底分かりつこが無いのだから』かう云ふかも知れない。けれども如何に先師と雖、それから露はに言ふことを自らの価値の下がる如くに思ふ師匠どもと雖、アララギの歌風が新詩社の歌風以後に於て、天下を風靡したといふことを否定することが出来ない。それゆゑ僕は後世に出て来る怠け歌学史家などの文を待たずに自ら明記して置くのである。けれども僕等同人は先師の前に之を自慢しようとは思はない。先師の七回忌に際して、僕等の生活の寂しさを思ひ、僕等の作家の不徹底を省みて、みづから恥ぢざることを得ないからである。混沌として苦しんでゐる生活の小閑を利用してやうやくこれだけ書いた。(六月七日夜)
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先師について僕の追憶を書かうと思ふと、知らず識らず僕が其なかに出てくる。全然僕を陰に隠してしまふといふことはむづかしい。そして僕自身のことを云ふ様な気がして心ぐるしいのであるが、このことは友も許して呉れるであらう。
旅順が陥ちたか、陥ちないかといふ人心の緊張し切つてゐた時である。僕は或る日、神田の石垣貸本屋から竹の里歌といふ薄い歌集を借りて来た。当時僕は和泉町で父がやつてゐた、病院の土蔵の二階に、がらくた荷物の間に三畳敷ぐらゐの空をつくつて其処に住んでゐた。窓ガラスには出征した兄の武運を、成田不動尊に祈念した神札などが張つてあつた。そこの室に坐つて借りて来た歌集を読んでみた。巻頭から、甘い柿もある。渋い柿もある。『渋きぞうまき』といつた調子のものである。僕は嬉しくて溜らない。なほ読んで行くと、『木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ』とか、『人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは』などいふ歌に逢着する。僕は溜らなくなつて、帳面に写しはじめた。
それから神田の古本屋をあさつて、竹の里人のものを集め出した。子規随筆を買つたり、心の花をさがしたりしてゐると、『左千夫』といふ名がだんだん多くなつてくる。当時僕はそれを『さぢゆう』と読んでゐた。竹の里歌の『さちを』が『左千夫』と同じ人だと知つたのは余程後のことである。
その頃、読売新聞に池田秋旻といふ人が居つて、歌の選をし始めた。池田氏も矢張り竹の里歌から刺戟を受けたものと覚しく、竹の里歌の初期に通ふ様な歌を詠んでゐた。その人が或る日漫言を書いて、根岸派には「アシビ」といふ歌の雑誌があるといふ事をいつた。それから僕は東京堂に行つて、アシビを買つて来た。第二巻の何号かである。買つて来て読んでみると、なかなか分からない。第一どう読んでいいか分からないのが多い。それらは字書のひきやうもないが、字書の引けさうなものは片端から字書を引いた。しかし竹の里歌の歌とは余程趣が違つてゐたやうな気がして、溜らない様な感動は起らなかつた。けれども僕はアシビ所収の歌は皆優秀なものに相違あるまいと、堅い盲目的な尊敬をはらつて居たのである。
渡辺草童君は中学校で同窓の友である。草童君は、中学校に居る時分から、日本新聞の愛読者で、新らしい俳人として、それから根岸派の歌の理解者として一家の見を有つてゐた。僕はある時、『僕は近ごろ歌を作りはじめた。そして根岸派の歌流である』といふやうな意味の手紙をやつた。さうすると草童君は非常に賛成して、そして僕の歌を批評し或るものは褒めて呉れた。ここではじめて僕は自分の指導者を得たやうな心持になつて、歌稿を送つて批評してもらふ。新刊のアシビを送つて分からないところを説明してもらふといふ風であつた。草童君の指導によつて、僕の目は少しづつ開いて来た。
その夏僕は今の妻を連れて茅ケ崎に行つた。妻はその時いまだ十歳の少女であつた。草童君に端書をやると是非遊びに来いといふ。そこで行つた。松田で汽車を降りて丘を幾つか越して山田村に出た。煙草の虫を除いてゐた草童君が、為事着のまま走つて来て僕の訪ねたのをよろこんでくれた。ホトトギスだの、馬酔木だの、いろいろな雑誌書物を見せて貰つたとき、新仏教の新年号に先師の肖像がのつてゐた。これが先師の顔を写真でみたはじめである。『君ひとつ訪ねてみたらどうか』とかう草童君が僕に云つてくれた。
僕には一種の臆する性癖があつて、世の中の偉い人などは殆ど訪ねない。そこで先師をも訪ねずに約半年を経過した。当時、小学校で僕より三つばかり年下の少年であつた長瀬金平君が、国を出て早稲田の予科に入つた。文学者希望である。長瀬君の同窓には本間久雄君も居た。そこで僕は長瀬と本間の両君に自作の批評をして貰つた。さうすると古くさいとか語句が悪いとか、子規の考は全然間違つてゐる、子規何者ぞ、などと云つて返事がくる。僕は残念で溜らない。或る時、アシビに当時すでに一家を成してゐた篠原志都児君の歌に、『がも』で止めたのがあつた。それを僕は真似て、『がも』と使つた。さうすると、本間長瀬の両君から、『がも』といふ語法は日本に無いと云つて来た。僕は驚いた。僕の尊敬して手本にして居るアシビに、明かに用例があるのに、それが誤謬だといふのは変だと思つた。そこで文法の書物を読んでみた。『がも』といふのは無い。上野の図書館に行つてくはしい文法書を見ても、『もがも』『もが』といふのがあつても、『がも』といふのは無い。さうすれば僕は議論で負けるのである。負けるのが残念で溜らない。そこで臆する性質を打破つて、本所の先師のところへ手紙を書いた。そして私は只今医科大学の一年の学生であるが、根岸派の歌の愛読者であり、少しは自分でも作る。その自分で作つた歌の中に『がも』といふ助詞を使つた。これは志都児氏の用例を真似たのである。然るに友は誤謬だと云ふし、文法の書物にも書いてゐない。そこで突然で厚かましいが、願はくは教示にあづかりたい。幾たびもためらつた末に、書損じたりなどして到頭かう書いた。ところが直ぐ返事が来た。白い半紙に無造作に、『もが』『もがも』の事を説明して来て、ちつとも『がも』の事は云つてゐない。それでも僕は非常に忝く思つた。かういふ気持は僕の生涯にも数へる程しか無いであらう。それから僕は感謝して手紙を書き、自作十ばかりを封じた。ところが又手紙が来て君の歌は邪気がなくて面白いから、あの中の五首をアシビに載せるといつてあつた。僕も出世したと其時大に思つたであつただらう。歌はアシビ第三巻の二号か三号に載つてゐる。『あづさゆみ春は寒けど日あたりのよろしきところつくづくし萌ゆ』といふのはその一つである。そして先師は、遊びに来いと手紙につけ加へてあつた。
あゆ日曜の日に、僕は訪ねようと決心した。そしていろいろ母上と相談して、山形ののし梅を持つて、亀沢町で電車を降りた。どんな人だらうか。あの写真でみると、何だか理窟やで恐ろしい人の様である。茅場町に近づくに従つて動悸などした。然るに大きな体格の田舎の翁の様で、ちつとも偉さうなところが無かつた。そして、「与謝野晶子の歌を評す」といふアシビの原稿を書いてゐた。これといふ気焔も挙げず、僕に抹茶をすすめて、『この菓子をたべてそれから飲みたまへ』と云つたやうだ。『我が背子は待てど来まさず、天の原ふりさけみれば、ぬば玉の夜もふけにけり』といふ万葉巻十三の長歌について僕に話して呉れた。アシビの第一巻から十数冊もらつて、三時間ばかり居て暇を告げた。明治三十九年の春で、先師四十三歳、僕廿五歳の時である。
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つい話が長くなつて夜がだんだん更けて行く、時には電車がなくなつてしまふ。為方が無いから又話を続けてゐる、夜はひつそりとしてしまつて大きな声を出して笑つたりするのも恐ろしいやうに思はれる。しばらくするとことことと物音がし出す。これは、午前一時に奥さまが起きて男衆を督促して、牛の乳をしぼるのである。間もなく車の音がし出す。これは牛乳の配達ぐるまの音なのである。
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先生は一時三井甲之氏を推賞してゐた。群議を排して馬酔木を廃刊し、アカネの発行を全然甲之に任せたのを見てもわかる。甲之の歌は当時の村人・篠原志都児・岡千里・胡桃沢勘内・望月光男・柳本城西・槙不言舎などの左千夫門下のなかにあつて異彩を放つてゐた。妙な機縁で相反目するやうになつてからも、『三井の歌は、どこか清い感じがある』『奴の文章は作るのでなく湧くのだね』などの評言を僕は聞いたことがある。
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明治四二年に卒業試問が迫つて居るのに僕は熱を病んで、赤十字社病院の分病室に入院した。熱が下り坂になつた時、古泉千樫君が訪ねて呉れたので、二人で曙覧の歌に就いて二時間ばかり話した。さうするとその夜から又熱が出たために、僕は平井院長からいろいろと叱られて面会謝絶になつた。それから数日経つて先生ははるばる見舞に来られたけれどもことわられてしまつた。何でも僕が死にはしまいかといつて非常に心配して居られたさうである。僕の隣室では入つて来る者が死んで、僕のゐるうち三人ばかり死んだ。消毒するフォルマリンのにほひが僕の室にも少し漏れて来たりなどした。けれども幸に僕は生きて毎日たべ物の事ばかり考へてゐた。その年の暮に退院して自宅の布団の上に寝て居ると、先生が訪ねて来られた。その日も赤十字社病院に行かれたが、僕が退院したので又僕の家へ廻られたのである。『君が死ぬかと思つた』かう云はれた。あの時分の事を思ひ浮かべてゐると、なつかしさやら、忝さが新らしく僕の心に蘇つて来るのを覚える。
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中村憲吉君が法科大学に入つて、深川八幡境内の寓居にゐたとき、島木赤彦君の上京を機に八幡境内の一旗亭で先生古泉中村僕の五人が酒を飲んだ。その時先生は何かのはずみに美しい芸者をひどくおこりつけた。芸者は不自然で到底駄目だが、奴らは髪だけは大切にするから見られる。こんな事を先生は時に云つて居られた。
晩年に随分熱烈な恋をしたが、いつか『恋愛の奇蹟』といふ熟語を先生は造つた。これは、肉感と謂つても決して器械的ではない、甚深の恋愛によつて、奇蹟的肉感の発現があるといふのである。此の奇蹟的肉感を先生はその頃経験したと云つて、どうも不思議だと話しながら、いかにも嬉しさうであつた。その恋愛の対者を僕はただの一度古泉君の下宿してゐる家で見た。
晩年の先生の恋愛歌はあれは皆実際の吟であるが、友人も門人もはじめのうちはそれが分からなかつた。長塚さんが先生の恋愛歌を読んで『伊藤君の年寄の冷水も困つたものだ』と評したことがあるのは、空想歌と思つてゐたからである。或る日僕は先生を訪ねたが留守であつた。そこで唯真閣に入つて一人で仰向に寝ころんで、先生の帰るのを待つてゐた。そこへ奥様が見えられて簡単な話をされたすゑに、『宅が昨晩斎藤さんの処へ御厄介になつた相ですがどうも毎度すみませんね』『いや僕のところではありません、古泉君のところでせう』かういふ問答などがあつた。僕は未だ若くてすまない事をしたと帰途に深く思つたために、いまだにその時の光景を忘却せずに居る。
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先生の小説に就いては、僕は殆ど全く理解が無かつた。僕はその頃短歌一点張で先生の小説をちつとも読まないのである。読まないばかりでなく、アララギの原稿を後れさせて小説を書いてゐるといふことが不平で溜らなかつたのである。いつか僕は締切期日迄先生の原稿が来なかつたのでその儘編輯をして了つた。そして、『僕は今生命を賭して小説を書いて居るのに、二日三日ぐらゐ原稿を待てない法はあるまい』と云つて、ひどく先生から叱られたことがある。そのハガキは多分保存してあると思ふからいづれ公表するかも知れない。
明治四一年の冬ごろ、故人堀内内卓君をモデルにして、「廃める」といふ短篇を書かれた。当時堀内君は鹿児島高等学校の第三部の学生であつたのを、東京の医科大学の学生として書かれた。或る日青山の僕の家を訪ねられて、解剖学のことだの生理学のことだの、学生生活の一品などを尋ねられた。その時僕は稍得意で独逸書の名前などを並べたことを記憶してゐる。堀内卓君は、平淡で新鮮な写実風の歌を咏んだもので、当時の同人仲間に異彩を放つてゐた。中村憲吉君が歌を作るやうになつたのは、堀内君のすすめに縁つたのである。小説も脚本も自分で作るし、相当の鑑賞眼を有つてゐた堀内君は、先生の小説に対して同情ある批評をしてゐたのであつて、「廃める」は堀内君に読ませるつもりで書かれたのである。
いつかゴリキー短篇集といふ翻訳書を先生が読んでゐたことがある。『ゴリキーはやつぱり旨いね』と云はれたことも覚えてゐる。先生はいいものからは随分影響を受けるたちであつて、小さく固まつてしまはなかつた方である。強情頑固といふ熟語ばかりでは決して先生一生の歩みを説明することは出来ないやうである。
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ここで一つ簡単に書いておかうと思ふことがある。先生は、選歌は自分が保証に立つ様なものだから責任を有つが、その他は同じ雑誌に載つてゐるものでも責任は有たないと云つて居た。それゆゑ選歌には随分骨も折り、随分愛しもした。日露の役が未だ終結しない時のことであつたらう。誰やらの歌に、結句の『艦山の如し』といふのがあつて、その歌の処に『左千夫曰』として非常に推賞してあつた。あとで聞けば、「艦山の如し」といふ句は先生自身が作つたもので、その句に対する愛惜の発露として其歌を推賞したのである。僕の歌は最初から左千夫流のところは少なかつたが、それでも選を受けて居つた時分には、時々褒められたことがある。その時分の僕の歌といふのは随分ひどいもので、三井甲之が近頃『剽軽趣味』といふ熟字を造つて僕の歌風に冠らせてゐるが、まさしくそれであつた。けれども僕の歌はだんだん変化し行いて、明治四十三年の夏からは、先生の選を経ずにアララギに発表した。併し選を経ずに発表する迄には、いろいろ自分でも考へ、それから先輩の石原純さんの意見をもきいたのである。さうすると、人に頼らずに自選して自分で責任を持つことも勉強の一つの方法であるといふ意味のことを云つて呉れた。それ以来僕は先生の選を経ずに自作を発表した。しかし僕の歌が先生から褒められることは無くなつて、後にも前にもただ一度褒められたのは「おくに」といふ連作十数首だけであつた。
僕の歌を褒めないばかりではない。選を経ない友の歌も褒めない。そんなら先生が特に選をして、推奨してゐる歌はどうかといふに、僕の目から見れば通り一ぺんの在来の根岸派流の平板と癖と臭気とに安住してゐるものに過ぎなかつた。さういふ一群の推奨歌が折々「趣味」といふ雑誌などに載つた。当時いまだ書生で一こくであつた僕は、先生の心理を直観し分析することが出来ない。そこで、あんな歌を特に推選するくらゐならば僕や友等の歌も褒めてもよいと云つて先生に対つた。島木赤彦君の「ある時は」といふ四五首の歌の批評をした時も、この筆法で劇しく言合つた。
当時先生は岡千里君の歌を非常に褒めてゐた。そして『千里は偉い』と言つてゐた。僕のところへ選歌の原稿と一しよに千里君の歌稿を送つたときも、『一首も削るべからず』といふことわりが附いてゐたこともある。或る時、『千里君の歌がそんなにどこが久保田や古泉の歌と違ひますか』といふと、『苦労を知らない、書生なんかに何が分かるものか』といつたことがある。僕は其時顔を赤くして『そんなら一つアララギで論戦しませう』と云つて、編輯所便か何かで先生に戦を挑んでゐる筈である。当時先生は『千里は此頃恋をして居る』といつて、非常に同情してゐた。先生の恋の経験と相共鳴したのである。然るに当時の僕は、千里君の歌に感服せなかつたのみではない、『恋』などにはてんで同情が無かつた。寧ろ、『きたなきもの』に触るやうな気がして居たのである。そんなら現在の僕は、当時の先生の推選歌の前にかうべを垂れるかといふに、当時の友や僕の歌と相くらべて、相待上決して首を垂れない。誰か当時の資料を持つてゐる人々は試みに相比較してみると興味がふかいことだと思ふ。
僕は余程の後輩で、歌がどうしても進歩せず、長い間うろついてゐたが、明治四十四年ごろは、今までの根岸派流に安住してゐてはいけないといふ事に気がついてゐた。そこで僕が編輯を担当するやうになつたとき、阿部次郎氏、木下杢太郎氏などに悃願して、原稿を頂戴した。さうすると地方の某々氏からさかんに先生のところに手紙を寄せて、アララギに邪道が這入つたといふ。それから僕らを『異趣味者』だといふ。そんなら某々氏等は少しく作歌に苦力してゐたかといふと、蠟を噛むやうな歌が陳々相因つてゐるに過ぎなかつたのである。けれども先生はどんなものでも心の抱擁を欲する先天の気稟からして、さういふ唆かし訴へにも動かされて行つた。僕はさういふ手紙の一二通を先生から見せられた時、『先生も地方の同人などから祭り上げられて納まつてゐる様では駄目です』といつて、家に帰つてから詫びのハガキを出したことがある。さうすると『お互に我を張らずに反省をせねばならぬ』といふ意味の返事が来て、僕は室にすわつて一人で泣いてゐたことがあつた。
僕等は、世間並に流行の『絶交』などは為ない。やはり一しよに歩いたり物を食べたり美術を見に行つたり、歌会は毎月欠かさずに開いた。歌会の批評には先生も故意にいふやうな点もあつた。僕らも故意にぶつかつて行つた点もある。明治四十四年だつたかと思ふ。小石川林町かの木村秀枝さんの宅で歌会をやつた時も、赤彦君の煙草の吸殻の歌その他が批評の対象となつてずゐぶん劇しく言合ひ、その夜僕はどうしても眠れなかつたことがある。
なぜこんなことを書くか。もう亡くなられた先生を引合に出して自己を語らうと欲するのではない。かう云ふのは厭味な自家弁護だらうか。あの時は僕等は緊張してゐた。そして人並には勉強もしたと思ふ。それからあの頃より先生の歌論も、歌も変化して行つた。大正元年に、僕は、「ほろびの光」といふ先生の歌稿を受取つた時、ひどく感激して本所に先生を訪ねた。さうすると、『諸君の歌を大分批難してゐるからね』かう先生は云はれた。「ほろびの光」の歌と従来の先生の歌とを心を潜めて比較したなら、緊張した論争裏に、どういふものを孕んでゐたかが、ほぼ推測することも出来るであらう。
僕等は、『あが仏たふとし』だと云はれて来て居る、しかし『あが仏』にむかつても、仏を呵すといふこともある。発達史の道程には斯ることもあつたのである。
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大正元年に土岐哀果君の発企で、故石川啄木の追悼会が浅草で開かれた。なかなかの盛会であつて、相馬御風氏が口語体の追悼文を読んだり、与謝野寛氏が啄木の歌の事をいつたりした。その時アララギからは先生と古泉君と僕とが出席した。座敷の後ろの方の隅に僕がすわつてゐると、そこに先生が来て、『何か僕にも話せといふが奈何しようか』かういはれる。そこで是非話して頂きたい旨をいふと、先生も啄木の歌のことを話した。座談風で、そして訥々といふところが、余程世間とは違つたものであつた。あとで笑ひながら、『なかなか旨くは言へないね』と言はれたけれども、あの会に先生の演説のあつたことはやはり調和を保つのに必要であつたやうな気がして、僕も心中得意であつた。
いつか演説の話が出たとき、先生は、『僕も演説は出来る』といひ出し、毎月歌会の席上で、十分間演説をやらうなどと話合つたことがある。その時も先生はなかなか気乗りがしてゐた。けれども僕等仲間は弁が下手なために、立消になつてしまうた。
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師匠と弟子といふ名称が、世間からだんだん減少して行きつつあるやうに、文芸界に於ても、すでに小説界、長詩界に於ては、一人の権威者を中心として事を為すといふ現象は無くなつてゐる。和歌俳諧の世界では未だ其面影をとどめて居るけれども、それも刻一刻と無くなりつつある。
正岡子規が俳句の革新を叫んだ時、宗匠弟子の階級を打破するといふことも重な為事の一つであつた。そこで子規は実際の門人をでも『友人』扱にし又さう呼んで居つたのである。何等の箔を附けるやうな伝統を有つてゐない書生の子規が猛然として立つた理由から見ても、彼の繰返して云つてゐる『月並宗匠』の名称は、自然的侮蔑の色合を有してゐるのは当然である。
それでゐて、子規は伊藤先生その他当時の同人のやうな、真の門人・崇敬者を得て居る。これは単に時代の関係であらうか。それから、伊藤先生とても集つてくる者を門人とはいつてゐない。それでゐておのづから門人を得たることあの如くである。これも単に時代の関係だらうか。僕はさうは思はん。
今の少年の徒を見るに、みんな独りで育つたといふ顔付をしてゐる。然るにアララギだけは少し違ふやうである。アララギに来て居る少年は未だ雑誌の主幹だといふやうな面持のものは居らぬが如くである。師匠弟子の関係はもはや伊藤先生迄で打切るがいい。そして、アララギに来るものであつて、小さく独立して納まつてゐるもののないことは神明が見ても気持がよいに相違ない。
◯
大正二年七月中旬に、島木赤彦君が眼の悪い政彦さんを連れて上京した。僕は、当時和泉町に開業してゐた小川剣三郎博士に紹介した。その病院は明治三十八年に僕の住んでゐたところであるから、その因縁にも繋かつてゐるのである。七月廿日ごろ、僕は赤彦君を東京に残して、一足先きに信州へ立つた。上諏訪町の布半旅館に著くと、友からいろいろもてなしを受けて東京の左千夫先生や千樫君等へ通信もせずに日を過ごした。当時郡視学をしてゐた赤彦君に知れると具合が悪い、赤彦君の帰らないうちがいいと云ふので、一夜上諏訪の遊廓に遊びに行つたりなどした。昼は暑くとも、朝夕諏訪湖の面を吹いて来る風は流石に涼しい。息づまるやうな、都会の狂人守の生活からしばし離れて、僕の心はゆつたりしてゐる。ある夜浴槽のなかで、美しい布半の娘と山の話をしたりなどした。
丁度七月三十日である。赤彦君が今日あたり帰家するらしいので、高木村に確かめに行つた。さうすると、多分今日夕方上諏訪駅に著くらしいとのことである。そして赤彦君のお父さんや不二子さんから種々馳走になつて、夕方提灯を借りて帰途に就いた。途中で若しかしたら赤彦君に会ふかも知れない、さう思つて通りすがる人を注意しながら、夜に入つて布半旅館に著いた。『あら一寸前久保田さんがお寄りになつて、うちで会ふと云つてお帰りになりました』『はてな、さうすると途中で会はなければならん筈だが、どうしたかなまあ為方がない。明日会はう』かう云つて、室に入つた。
夜の十一時過ぎであつただらう。僕は一湯浴みて寝ようと思つて、いい気持になつて浴槽に浸つてゐた。そこへ女中が『電報がまゐりました』といつて持つて来た。『どれ見せろ』といつて、浴槽の中で眼を近づけて見ると、『チカシ』といふ打名がある。その瞬間に僕はアララギに関して何か要事が起つたに相違ないと思つた。しかるに、なかをあけると『サチヲセンセイシンダ』といふ文句である。
もう夜半を過ぎてゐる。僕は赤彦君のところへ駈け出した。途中で人力車に乗つて高木村に著いたのは一時を余程過ぎてゐる。寝しづまつた家を呼起こして、赤彦君のお父さんに事情を話すと、お父さんは提灯をつけて、桑畑だの唐黍畑だの幾つか通つて、別宅の赤彦君のところへ連れて行かれた。今寝たばかりだつたといふ赤彦君が大きな目を睜つて、『先生はえらい事をしたなあ。えらい事をしたなあ』と云つた。赤彦君の驚愕は無理はない。先生は二日ばかり前病院に赤彦君を訪ねられて、非常な元気で歌を論じ、下利して弱つてゐる赤彦君を辟易させたさうだからである。そして其日茶器を買つて来て遣ると云つて帰られたが、翌日来られなかつたので、赤彦君はその儘東京を立つたといふのだからである。朝床の上で『どうしようか』と考へてゐると、赤彦君の小さい男の児がのぞいて『斎藤茂吉、斎藤茂吉、斎藤茂吉が未だ寝てゐるわ』と云ふ。赤い花を附けた罌粟畑が続いてゐて、その向うには諏訪の湖がもう日光を受けてかがやいてゐた。
赤彦君の家で不二子さんのもてなしの鯉をたべた。三十一日の夕、上諏訪駅から汽車に乗ると、松本から乗った平瀬泣崖君と一しよになつた。汽車の中では二人はなかなか眠られない。あけがた新宿で汽車を降りて青山の家に著くと、土屋文明君から再三電話が掛かつてゐた。
大いそぎで本所茅場町に行つてみると、唯真閣のあの茶室に、先生はいかにも静かな顔をして死んでゐられた。八月一日は夏の真中と謂つていい。先生の体は刻々に分解してゐる。数間を隔てた住宅からは、くやみに来てゐる先生の友人らの笑ひどよめく声が聞こえる。寝棺にをさめる前に、清い湯で先生を拭いてあげた。中村不折、平福百穂の両画伯は先生の死相を写生された。それは大正二年のアララギ左千夫記念号にのつてゐる筈である。
初版『赤光』より 斎藤茂吉「悲報来」
ひた走るわが道暗ししんしんと堪へかねたるわが道くらし
ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし
すべなきか蛍をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし
氷室より氷をいだす幾人はわが走る時ものを云はざりしかも
氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり
死にせれば人は居ぬかなと嘆かひて眠り薬をのみて寝んとす
赤彦と赤彦が妻吾に寝よと蚤とり粉を呉れにけらずや
罌粟はたの向うに湖の光りたる信濃のくにに目ざめけるかも
諏訪のうみに遠白く立つ流波つばらつばらに見んと思へや
あかあかと朝焼けにけりひんがしの山並の天朝焼けにけり
七月三十日信濃上諏訪に滞在し、一湯浴びて寝ようと湯壺に浸つてゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取つた。予は直ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十二時を過ぎてゐた。
「赤光」初版跋より一部抜粋
◯明治三十八年より大正二年に至る足かけ九年間の作八百三十三首を以て此一巻を編んだ。たまたま伊藤左千夫先生から初めて教をうけた頃より先生に死なれた時までの作になつてゐる。アララギ叢書第二編が予の割番に当つた時、予は先づ此一巻を左千夫先生の前に捧呈しようと思つた。而して、今から見ると全然棄てなければならぬ様なひどい作迄も輯録して往年の記念にしようとした。特に近ごろの予の作が先生から褒められるやうな事は殆ど無かつたゆゑに、大正二年以降の作は雑誌に発表せずに此歌集に収めてから是非先生の批評をあふがうと思つて居た。ところが七月卅日の、この歌集編輯がやうやく大正二年度が終つたばかりの時に、突如として先生に死なれて仕舞つた。それ以来気が落つかず、清書するさへものうくなつて、後半の順序の統一しないのもその儘におくやうになつたのは其為めである。はじめの心と今の心と何といふ相違であらう。それでもどうにか歌集は出来上がつた。悲しく予は此一巻を先生の霊前にささげねばならぬ。(後略)
参考資料
↑こちらの本を底本として入力しました。
↑初版『赤光』はこちらで閲覧できます。「悲報来」は初版では巻頭ですが、再版以降は歌の並び順が変わっています(跋文も違う)。