38歳不妊治療 体外受精→妊娠→流産11(終)

私は2024年に48歳になった。
この不妊治療→流産から、もう10年ほどが経つ。
 
そもそも、これを書き始めたのは流産から2ヶ月後。
まだ治療にも復帰できず、仕事をすることも控えている時期に気持ちの整理をつけるためのものだった。
次回から、流産が決定的になった後のことを書かなければ…というタイミングで、やはり筆が進まなくなった。再度書き始めるまでに1年以上の時間がかかった。
そして更に、流産の処置(手術)をする部分を書けないまま、あっという間に7年が経った。
途中になっているのは気持ち悪いなあと、自分でも気になりつつの7年。
 
7年の間に時間薬はやさしく効いて、いろいろなことを少しずつ忘れさせてくれた。
けれどずっと覚えていることもある。現在まで覚えているこれらの記憶はきっと、この先もずっと残っていくことなのだろうと思う。
 
流産の処置は全身麻酔。
目が覚めた時にはカーテンの中のベッドに寝ており、カーテンの外には多くの人の気配がした。
驚いたのは、目が覚めた時に自分がすでに泣いていたことだった。
もちろん心情的には涙が出て当然の状態なのだが、意識のない全身麻酔下でも人は涙を流すことがあるのだ。
目が覚めましたと、カーテンの外の看護師さんたちに声をかけるべきだったのだろうが、少しの間、私は自分のお腹に手を当てながら静かに泣き続けた。泣ききるまで泣くためには、目が覚めていることを悟られてはいけないような気がして、静かに静かに泣いた。
あの時見た、カーテンで仕切られて小さく楕円になっている天井の模様と、目が覚めたときにすでに濡れていた自分の耳のあたりの感触を、今でも思い出すことがある。
 
その後私はもう一度妊娠して流産し、信頼していたZ先生がひどく多忙になってなかなか診てもらえなくなったタイミングで違う病院に移った。
新たな病院は、いい病院だとは言えなかったが、新たに違う病院を探すだけのパワーは残っていなかった。そのままそこで治療を続け、ここでも一度だけ妊娠し、しかし胎嚢も確認できないままの化学流産となった。
 
不妊治療を行なった最後の数年は、子どもを産むためでもありながら、子どもをあきらめるための数年でもあったように思う。
 
妊娠し、流産したのがこの記録だが、これは「着床」をクリアしている。
しかしその後、受精卵を戻しても着床しないことが起こる。これは着床はしなかったものの「受精卵ができる」ことはクリアしているのだが、次には体外受精の際に一つの卵子に二つの精子が入り込んだり、受精はしたものの分割がうまくいかなかったりと、受精卵ができなくなるという事象が起こる。
そのうち、卵巣を刺激しても卵子が思うように成長しなくなるのだろう…というあたりで、私たちの不妊治療は終わった。
 
―――――――――
 
受精卵を子宮に戻し、妊娠できるかできないか。着床した受精卵が無事に育って胎児となり、無事に出産できるかできないか。大きいハードルだけれども、ハードルはそれだけだと思っていた。
しかし出産までのハードルは、実際にはいくつもある。そして年齢を重ねるにしたがって、そのいくつものハードルの存在を知ることになり、しかも最初の方のハードルに引っかかってしまうようになる。
いつかきっと、そのハードルをすべてうまく越えてゴールに辿り着くレースができるのだと信じた6年間の不妊治療だったが、それを信じるのと同じくらい、私は幸せな妊婦にはなれないだろうという予感めいた確信もあった。
たくさんのハードルの存在を知ってしまったし、4回の流産を経験した。妊娠しても、この子が無事に産まれるだろうかまた流産するのではないだろうか今度は死産を経験したらどうしよう出産の時に何も事故が起こらずに済むだろうかと、産むまでずっと気に病んだだろう。
生まれたらこんな風に愛そう、こんな服を着せよう、こんなところに連れていこう…。そんな幸せな想像を楽しめる妊婦には、なれなかっただろうなと、人ごとのように思う。
 
幸せな妊婦にはなれなかっただろうから、だから別によかったのだと、そんな苦しい負け惜しみを言うつもりはない。私は子どもがほしかった。子どもを産みたかった。子どもに会いたかった。でも、子どもを得られなかったこの人生を不幸だとも思っていない。少なくとも、今は。
 
どうしてこんなに子どもがほしいのだろう、私にとって子どもとは何なのだろうと、不妊治療の間、何度も考えた。
せっかく女性に生まれたのだから、妊娠出産を経験してみたい。
せっかくこの夫と夫婦になれたのだから、子どもを産んで育てるというプロジェクトを共に体験してみたい。
考えて出てきたのはそんな「せっかく」だった。せっかくだからってなんだろうともう少し考えてみて、私にとっては「ついで」か、と。気づいたら、楽になった。子どもがいることでしか私の人生は完成しない というような、是非の存在ではなかった。私は私で幸せに過ごして人生を楽しみ、そのついでとしてせっかくだから子どもがほしかったのだった。
「ついで」という言葉自体が軽く聞こえたとしても、その「ついで」のために、きっと私は(夫も)命をかけられただろうけれど。
 
子どもがいないことは、私にとっては人生の欠落ではなかった。いないからといって不十分なのではない、いないからといって不幸せなのではない。実は今のままで十分だし幸せだ…と気づいたときに、やっと私は子を持つという執着を手放せた。
もちろん「幸せのついで」に子育てを楽しみたかった。子どもがいたらどんなにか彩りのある、楽しい人生になっただろう。あたたかい小さな生き物が腕の中にいるのはなんていう幸せだろうかと、友人の子を抱くたびに涙ぐむような気持ちになった。これが自分の子どもだったらその喜びはどれだけのものだろうかと何度も想像した。寝ない子どもを宥めすかしたり、食べない子どもに悩まされたりもしてみたかった。一人の人間を育てるということの重圧も感じてみたかった。自分の価値観の押し付けをするのではなく導くとはどういう振る舞いだろうかと思い悩んでみたかった。
今列挙したような全てを、体験することは叶わない。でもだからって、今の自分を惨めだとも、かわいそうだとも思っていない。
子どもがほしいこと(ほしかったこと)と、それを得られなかったことと、しかし子どもがいなくとも幸せであることは両立する。
 
今この瞬間にも、子どもがほしくて子どもを産みたくて、けれどもそれが(現時点では)叶わなくて、つらい絶望の中にたった一人沈んでいる人がいるだろう。あのときや、あのとき、あのときの私と同じように。
そこから抜け出した今を、その人に誇ろうとは思わない。そこから抜け出した今が、その人よりも先だとか上だとか言うつもりもない。
ただ、絶望の中でも絶望以外の景色を見ることができると、その人が気づけたならと願う。
絶望の中でも笑える日があることに、その人が幸せを感じられたらと願う。
そして何より、望む人みんなに、子どもが授かれるように願う。
生まれた子どもが、みんな幸せに健やかに喜びを持って成長するように願う。
 
私はこれからも、子どものいないこの人生を、幸せに健やかに喜びを持って生きていこう。

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