1000字で戦国カテキズム | 『どちりな』の輪郭
こんにちは、躓くロバです。
前回に引き続き『長崎版 どちりな きりしたん』(以下『どちりな』)について語ります。『どちりな』は約400年前に日本で作られたカトリックのQ&Aです。
今日は輪郭ということで、本文の構造について語ります。
前回の記事を読んでない方、読んだけど忘れちゃった方は前回のおさらいからどうぞ!前回の内容をばっちり覚えている方は『どちりな』の輪郭へジャンプ!
それでは、はじまり、はじまり。
前回のおさらい
前回は、序文から主題を読解しました。
キーワードは3つ。
信仰、希望、愛。
これら3つは神学的徳と呼ばれます。
神学的徳は、良い習慣によって形成される力のうち、
神との関係の中で成立するもの。
その良い習慣って何?というのが今回のテーマです。
※詳しい内容が知りたい方は前回の記事をご確認ください。
『どちりな』の輪郭(991文字)
神学的徳を念頭に本文を読み進めると、次の記述が目にとまります。
弟 ぜんあくのしやべつをわきまふるほどのとしころなるキリシタンはなに事をしる事かんようなるぞや。
師 三さまの事なり。一にはDをよくたのみ奉り〔希望〕。二にはよくしんじ奉り〔信仰〕。三にはよきしよさをなす〔愛〕みちをしる事これなり。(海老沢有道校註 1950『長崎版 どちりな きりしたん』岩波., pp.27-28、〔〕はロバによる。)
ざっくり要約。
弟子 「キリシタンに大切なこと教えて」
師匠 「よく頼むこと、よく信じること、お行儀よくすること」
あまりに漠然としていますね。弟子も同感のようです。
直後の弟子の質問を抜粋します。
弟 「Dをよくたのみ奉るみちはなにとしるべきぞ」
師 (略)
弟 「たつしてしんじ奉るべきやうをばなにとしるべきぞ」
師 (略)
弟 「ぎやうぎをよくおさむるみちをばなにをしるべきぞや」(ibid., p.28)
ざっくり。
弟子 「よく頼み、よく信じ、お行儀をよくするために学ぶことは?」
師匠の回答は、紙面の都合上まとめます。
頼むべきことはオラショで学ぶべし。
信じるべきことはケレドで学ぶべし。
守るべきことはマンダメントとモルタルで学ぶべし。
うーん。謎が謎を生みました。
オラショやケレド、マンダメント、モルタルが気になりますね。
しかし弟子は他に気になることがあるようです。
弟 たゞしくしんじよくたのみ奉り、又身もちをよくおさむる爲に右〔オラショ、ケレド、マンダメント、モルタル〕の外べつのかんようなるぎありや。
師 なか〻 かんようのぎあり。これすなはちDよりぢきにあたへ玉ふ三のぜん〔神学的徳〕なり。(ibid., p.28)
ざくつと。
弟子 「他に大事なことはある?」
師匠 「あるよ。神学的徳だよ」
……色々気になりますね。
オラショからモルタルまでの説明を受けた後、弟子は満を持して質問します。
弟 そのガラサ〔ここでは神学的徳〕をDよりくださるゝためになにたるみちありや。
師 御はゝサンタ エケレジヤのもろ〻 のサカラメントこれなり。此サカラメントをよきかくごをもてうけ奉るべき事かんよう也。(ibid., pp.92-93)
ざくつと。
弟子 「神学的徳をいただくには?」
師匠 「教会で秘蹟をうけるべし」
こうして秘蹟についての説明がなされます。
おしまい。
さいごに
うーん……。なんだがモヤモヤしませんか?
神学的徳は人間の行為によって、
いわば功徳として獲得できるものなのでしょうか?
それとも恩寵として神から一方的に与えられるものなのでしょうか?
ある時は功徳(お祈りや使徒信経を覚えたり、戒律を守ったりしたら得られるもの)だと言い、ある時は恩寵(秘蹟を通じて神から与えられるもの)だと言っているように見えます。
この議論は、かなり伝統的な問題に通じます。
ここではあまり深入りしませんが、「恩寵か功徳か」という二分法を超えた立場がカトリックにおいて支配的です。無論、管見の限りですが。2つだけご紹介します。
我々の行為は、神によって恩寵を通じて動かされた自由意志から出てくるものである限りにおいて功徳あるものである。(トマス・アクィナス「信仰という行為は功徳あるものであるか」『神学大全』)
人が信ずるのではあるけれども、同時に信じさして頂くのである。(岩下壮一「キリストを信じうるか」『信仰の遺産』)
……うーん。まだモヤモヤしますよね。記事を改めます。
これまで2回を通じて『どちりな』の主題と輪郭を語りました。
次回以降、いよいよ各論に踏み込みます。
その中で神学的徳に関する疑問が幾らか解消されることを願いつつ。
というわけで、次回『どちりなの祈り』。
それじゃ、またね!