22/9/2024 at Yaizu
神戸に4年ぶりに出かけて行った。平民金子氏と橋本倫史氏による対談「十耐」を聞きにいくためだ。2024年9月14日に深夜バスに乗り翌日朝7時過ぎに何事もなく無事に三宮バスターミナルに到着できた。
およそ30年前にこの街で足掛け2ヶ月の居候をしていたのだけども記憶はあやふやになっているしそれをあまり語っていなかったなと思っている。ちゅ神戸市の中央区のボランティアセンターに参加を申し込み2月半ば静岡は清水からかなり軽い気持ちで出かけて行ったのだ。初日は中央区役所で寝たはず。この記憶がない。翌日に看護学生だと言ったか看護助手と言ったか女性二人と区役所を出て筒井台中学校へと向かい、自分のボランティア活動が始まったのだった。なかなか上手く書けないな。
ある時、もう3月半ば過ぎではないか。オウム真理教によるサリン事件テロの前のことだと思う。洗濯機が避難所である学校に届いた。1月から3月まで洗濯をどうしていたのだろう。覚えていない?自分の着物をどうしていたのか?ともかく洗濯機が到着し、先生や避難者即ち近所の方々とそれを見ていた時のこと、「これSARAなん?」と聞かれたので、二層式洗濯機の脱水機ついている蓋のことを言っているのだと、三河弁話者である自分が「サラじゃないですよ。蓋です」と答えたのだ。「いやSARAなんかな」「蓋ですって」
「SARAちゃうんかな」「ふたです」
テロの時は用務員さんがテレビ画面を見ながら
「あれはホテルの人と違うんかいな?」
「駅でなんかあったと言ってるみたいですよ」
「いや、駅員はあんな格好してへんやろ。」
「ホテルマンみたいな格好ですかね?」
今思うと、それにハマってしまわないために会話をわざとズラしていたのかもしれないなとも思う。
神戸らしいではなく、神戸の中学校で働く方にそんな人がいたというだけなのである。
王子公園動物園が無料開放となった時にその方と二人で出かけて行った。30年も経って気が付いたのだけど王子公園と隣同士に学校はあるのだった。
3月も終わりが近づいていた。オウムの事件の前からボランティアボランティア帰宅論・帰宅説がしきりに流れていたと思う。帰る時が迫っている。しかしこのボランティアが担ってきた事柄をこれからどうするのか。有償で仕事を無くしたワシらがすればええねん、という意見もあったと思う。
30年後のいま、自分はボランティアすらできない経済状態で日々を過ごしている。これはなかなか苦しく恥ずかしいなと思う。自分を支える基盤すらないものが他人のことをとやかくできるわけはないのである。
2024年9月15日朝。雨は上がっていた。
阪急電車の王子公園駅を降りて中学校へ向かうために歩き始め最初の信号を渡って行った。それは間違っていた。
原田通りを右にまっすぐ行けば王子公園、葺合高校、筒井台中学校なのである。そのことを30年間知らなかった。10年ほど前に中学校を目指して歩いた時も道を間違えていたのだった。
そんな程度でしかないのかと恥じるところもある。
なぜだか遠回りをしながら宮下公園?の横を通る。その坂を上がると突き当たりが中学校なのである。当時公園には日赤のテントがあった、と記憶する。
中学校に真下にテイさんというお爺さんが住まわれていた、そのテイさんが時折赤札の貼られた自宅に戻りソーセージを作って振る舞ってくれていた。テイさんの指ソーセージ。全くその名の通り指にしか見えない甘めの肉詰めであった。いわゆる台湾ソーセージなのだろう。
中学校の西隣には長屋があり銭湯があった。地震でその煙突が倒れ長屋は全壊、2月もまだ煙突が倒れたままだったのではないか。煙突を見たような気もする。全てうろ覚えの世界である。
しかしその銭湯は無くなっていた。無くなったことは事前にネットで知ってしまっていた。現場に行ってみると普通のお宅が3軒ほど並んでいる。銭湯再開の何日か後に多分誘われてお風呂に入った。
中学校自体建て替えられていて変わっていた。
ただその時にお邪魔していただけなのである。だから書き起こそうとするとなかなか思い出せないのだろう。申し訳ない気持ちにもなってくるのでここで一旦終わりにしよう。
様々な炊き出しがあった。三重からドラム缶を持参でオイスターのカキを持ち込んでくださった教師群。地元のチーズ会社さんは、ボルシチの炊き出しをしてくださった。学校の廊下にボルシチがたっぷり入った鍋がいくつも並んだ光景を思い出す。なぜだか人気がなかったのだけど。
十耐自体の話をするためにここまで遠回りになるとは思ってもいなかった。
なかなか厄介な自分である。
ここまで読んでいただいた方には感謝。