〈卒業制作への道 #3〉長野見聞録 -後編-
卒業制作のテーマに農民美術運動を選び、その発祥の地である長野県に来た…という話の続き。
前編はこちら ↓
長野県を訪れた理由は
①本物のこっぱ人形を見ること
②こっぱ人形作家の徳武忠造さんに会うこと
であった。
しかし、実はもう一ヵ所どうしても行きたい場所があったのだ。
初日は松本市の近くに移動して一泊し、次の日に奈良井宿と呼ばれる宿場町を訪れる。
奈良井宿は東京と京都をむすぶ街道『中山道(なかせんどう)』にある宿場町のひとつ。
「奈良井千軒」とも呼ばれ、中山道にある11の宿場の中では最も賑わった場所だったそう。
国から重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、江戸時代の面影を残した木造建築が立ち並ぶ。
ただ、今回、奈良井宿に来た目的はこの街並みを見るためではない。
(建築をかじる身としてはもっと興味を持つべきなのかもしれないが…)
この奈良井宿にある『藤屋』という店にどうしても来たかったのだ。
藤屋は、店主である中西康二さんが制作した土人形やからくり玩具、版画などを販売するお店。
郷土玩具に興味を持ち、いろいろと集め始めた頃、知り合いから中西さんが制作した「びっくりねずみ」というからくり玩具を教えてもらった。
それは木製のからくり玩具で、品よく正座したおばあさんの両脇にタンスが置かれており、その片方からねずみが顔を出している。
台座のつまみを引くとおばあさんがねずみのほうを振り向くのだが、同時にねずみはその姿を隠し、おばあさんの顔の向きと逆のタンスから別のねずみが顔を出す。
つまみを左右に動かすたびにおばあさんは振り返ってねずみを見ようとするのだが、その姿を捉えることはできない。
単純な動きでありながらも、ねずみを見ようと頭を左右に動かすおばあさんがなんともけなげでいとおしい。
「これはなんとしても手に入れたい!」と思い調べたところ、実は中西さんはすでに亡くなられていることを知る。
中西さんは一人でからくり玩具を制作していたため、現在は奥さまがお店を切り盛りし、生前に制作された作品を非売品という形で店頭に並べているとのことだった。
そこで今回、中西さんの作品を直接見るために奈良井宿に来たのだ。
出迎えてくれた奥さまはとても明るくお元気な方で、ご主人や作品についてたくさんのお話を聞かせてくださった。
アイデアマンだった中西さんは同じものを作り続けることがあまり好きではなかったようで、土人形や版画、からくり玩具など季節ごとに作るものを変えていたらしい。
他にも、時間を見つけては二人で山登りに行っていたこと、中西さんの作品が有名になり、まるっきり同じようなものを無断で販売されたときにはひどく怒っていたこと、息子さんに跡を継いでもらいたいと思いながらもそのことを言えずにいることなど、作品を通してご夫婦の人生をのぞかせてもらっているような、とても充実した時間を過ごさせていただいた。
中西さんが制作されたからくり玩具は素朴な見た目と考え抜かれた仕掛け、そしてユーモアにあふれたあいらしさを持った、まさに唯一無二の魅力を放っている。
(「奈良井 からくり玩具」で検索すると中西さんの作品が見られます)
「お父さんがあなたとお会いできていたらきっと喜んでたと思うわ。」
という奥さまの言葉に、「もっと早く出会っていれば…」という想いがこみ上げる。
中西さんの作品に限らず、いま郷土玩具は衰退の危機に瀕している。
無印良品の福缶の販売や若い世代の郷土玩具マニアの増加、独自の解釈でアレンジされた新しい郷土玩具の登場など、郷土玩具の魅力を見直す動きはある。
しかし、中西さんのように小規模で作られてきたマイナーな郷土玩具は今後もどんどん減っていくだろう。
何とかしたいと思いつつ、自分一人ではどうにもできないもどかしさを痛感している。
中西さんの奥さまと話している中で、実は中西さんは農民美術運動の参加者だったことを知る。
そのことをこっぱ人形作家の徳武忠造さんにお伝えしたところ、「実は山本鼎もからくりおもちゃを奨め、本に図解で出しています。」と教えていただいた。
今回の旅で出会ったこっぱ人形とからくり玩具に対する〈好き〉がつながったことで、ますますこっぱ人形を卒業制作として形にすることの意欲を感じている。
農民美術運動を提唱した山本鼎の言葉を改めてここに記す。
近代化が進み、インターネットによって世界中の垣根がなくなりつつある今の時代に、目の前にあるものに今一度目を向け、「自分の内から湧き出てくるものを自らの手で形にする」ということは、おそらくとても大切なことなのだろうと実感した2日間だった。
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