〈卒業制作への道 #2〉長野見聞録 -前編-
前回、卒業制作のテーマにこっぱ人形を選んだという話をした。
4月上旬。
こっぱ人形をより深く知るため、こっぱ人形の発祥の地である長野県神川村(現 上田市)を訪れた。
農民美術運動とは
農民美術運動とは、1919年に版画家である山本鼎(かなえ)という人物がはじめた美術運動で、当時貧しかった農民に版画や木工、織物などを教えることで副収入と芸術活動への参加を目的としたものであったらしい。
なかでもこっぱ人形と呼ばれる木彫りの人形が有名で、お土産として販売したところ大ヒット。
全国で講習会が開かれるほどだったとか。
こっぱ人形との出会い
はじめてこっぱ人形のことを知ったのはずいぶん前。もう5年以上経つだろうか。
出会いはたまたま古本屋で見つけた『アウト・オブ・民藝』という本だった。
ページの片隅に小さく載っている木彫りの人形の写真を見て、一目ぼれした。
素朴でかわいくて、味わいがある。
それはこっぱ人形と呼ばれるもので、大きなくくりでいえば郷土玩具のひとつであることを知る。
それをきっかけに郷土玩具にドハマりしていくのだが、そのあたりの話はこちらにも書いているので興味と時間があればぜひ。
こっぱ人形のふるさとに行く
長野県上田市に来た目的は2つ。
ひとつは上田市立美術館 サントミューゼに所蔵されている本物のこっぱ人形を見ること。
もうひとつは、現在もこっぱ人形を作り続ける作家さんに会うことだった。
大阪から夜行バスで揺られること9時間半。
上田市に着いたのは朝の6時22分。すでに空は明るくなりつつある。
サントミューゼの開館までは少し時間があるので、近くにある上田城を散歩することにした。
お堀の周りは地元の人の散歩コースになっているようで、早朝からそれなりに人が歩いている。
外の人間からすると非日常的な場所なんだけど、そこに住む人にとっては日常的という空間になっているこの感じ、とてもいい。
その後、ファミレスで朝食を食べながら時間をつぶしつつ、サントミューゼへと向かう。
サントミューゼでは現在、イラストレーターであり絵本作家のヨシタケシンスケさんの展覧会『ヨシタケシンスケ展かもしれない』がやっており、実はこれを見るのも長野に来た目的のひとつであった。
長くなってしまうのでここでは割愛するが、日々の小さな気付きを拾い上げ、マイナスをプラスに変換するヨシタケさんの作品を堪能できる、本当にすばらしい展示だった。
ヨシタケさんの視点やものの捉え方は農民美術の考え方に非常に近く、広い長野県の中でもここサントミューゼで展示をしているということに必然性というか納得感のようなものを感じた。
現在全国を巡回中なので、機会があればぜひ行って欲しい。
そしていよいよ念願のこっぱ人形との対面。
実際に目の当たりにしたこっぱ人形は想像よりも小さく、そして想像以上に表現が豊かであった。
全国で講習会をするほど人気だったこっぱ人形だが、講習を受けた土地の人が独自の解釈を加えてそのまま郷土玩具として定着したものもある。
代表的なものは島根の「出雲人形」や、伊豆大島の「あんこ人形」と呼ばれるもので、そのどれもが土着的であり、それゆえに個性的である。
100年前の人たちが残した彫刻が、いま自分の目の前にある。
仰々しい仏像や卓越した技術でつくられた伝統工芸ではないが、その代わりに作った人の温かみや視点、当時の情景を想像させるような奥ゆきを感じた。
テクノロジーが発達した現代は当時からすれば想像もできない世界だろう。
そんな今の時代を生きる自分が、あえてこっぱ人形を作るのならばどんなものになるのだろう…などと考えながらサントミューゼを後にした。
こっぱ人形の第一人者に会いに行く
上田駅から車で15分ほど走ったところに『コゲラの里工房』はある。
一時は全国に広まったこっぱ人形だが、現在は上田市をはじめ、長野県のごく一部の地域に残るのみとなってしまった。
そんなこっぱ人形を現在でも作り続けているのが『コゲラの里工房』の徳武忠造さんだ。こっぱ人形保存会の会長も務め、こっぱ人形制作のワークショップをおこなうなど、こっぱ人形の魅力発信をされている。
今回、こっぱ人形を調べるにあたって徳武さんにぜひお会いしたいと連絡したところ、快く工房にお招きくださった。
コゲラの里工房に入るとまず目に入ってくるのは棚に並んだこっぱ人形の数々。すべて徳武さんの作品である。
スマホを片手に立つ主婦、板前、ナースなどバリエーション豊かな人々や自撮りをするクマなど、現代的でありながらどこか懐かしさを感じさせるものばかりで、サントミューゼで見たものとはまた違う味わいがある。
「ようこそ。こちらへどうぞ。」
物腰やわらかく、見るからにいい人である徳武さんに案内され、2階の工房へと足を踏み入れる。
部屋に入ったとたんにふわっと広がる木の香り。
壁には制作中のこっぱ人形がずらりと並び、作業台には木のくずが散らばっている。
まさにここで現代のこっぱ人形が生み出されているのだ。
ひとまず自分が何者なのかを伝え、なにから話せばいいやら戸惑っていると、徳武さんは農民美術運動を始めた山本鼎(かなえ)がどんな人物だったのかを話してくれた。
山本鼎は洋画や版画などを制作する美術家であった。
30歳になるとフランスへ留学をするのだが、その帰りに立ち寄ったロシアで農民によってつくられた木工作品に出会う。
農民の収入が減る農閑期を活用し、木彫りで作られた素朴な作品を目にした山本鼎は一目ぼれし、日本に帰国して農民美術運動を立ち上げることを決意する。
当時の日本は戦争の真っただ中で、国による買い上げによって米の価格が高騰し、農民が自分で育てた米を自分で買えないほどだった。
そんな農民の姿を知り、鼎は副業としての農民美術運動を広めることになる。
山本鼎が育った家庭は決して裕福などではなかった。
失恋による傷心から逃れるため、方々に頼み込んで何とか留学資金を工面してフランスに渡ったそうだ。
帰国後は農民美術運動の活動に私財を投じ、その生涯を終えるまで質素な生活を送っていたという。
失礼ながら、金にも才能にも恵まれた上流階級の人間が道楽に近い形で庶民に芸術を教えていたのだろうなどと邪推していたのだが、実際には自分の気持ちにまっすぐな、何とも人間臭い一面があったことを知り、勝手に親近感を持ってしまった。
山本鼎と『藝術』
医者であった山本鼎の父は、同じく医者で森鴎外の父でもある森静男に師事をしていた。そして森静男の親戚である西周(にし あまね)という人物は、『ART』という英語を『藝術』と翻訳した人である。
「藝術の『藝』という文字には、〈苗を植え、育てる〉という意味があります。山本鼎は農民美術を通して、周りにある素晴らしいものに目を向け、それを藝術という表現を通して未来に繋いでいきたいという想いがあったのだと思います。」と徳武さんは話す。
西周が『ART』を『藝術』と表現したその想いを、森静男、そして父を通して山本鼎も受け継いでいたに違いない。
農民の貧困に対する支援も農民美術運動の目的として重要であったことは間違いない。
しかし、それ以上に【表現する】という行為とはほど遠い位置にいた農民たちに藝術を通して新しい視座を与え、庶民の暮らしの中から日本の人々の在り方を変えようとしていたのではないだろうか。
山本鼎はこのような言葉を残している。
コゲラの里工房からの帰り道、無機質なコンクリートの建物に囲まれた長野の街並みを横目に徳武さんの言葉を思い出していた。
「こっぱ人形を作るようになると、周りの見え方が変わるんです。ささいなことにも気が付くようになる。だから、今の時代にこそ、農民美術や山本鼎の哲学が必要だと思うんです。世の中にこっぱ人形の魅力がもっと広まるといいなと思います。」
「まさに自分がやりたいことは、これなんだ。」と確信した。