八っつぁんとペテロ
落語は敷居が高い
と言われることがある。落研に入っていることを伝えるとたまにもらう反応である。
なんで?大衆芸能じゃん!!と私は思っていたが、最近この「大衆」が現在の「大衆」とは異なるのだとやっと気がついた。落語演目の「七段目」を例に挙げよう。これは歌舞伎の忠臣蔵を観てきた芝居オタクの若旦那が、家で芝居の真似事をして階段から落っこちる(ネタバレしてしまった!)話だ。笑いどころ満載の楽しい芝居噺なのだが、これは聴く者が芝居の知識を有していることを前提としている。しかし現代では歌舞伎そして忠臣蔵を皆が知っているとは考えにくい。江戸時代においては常識だった事柄が現代では「教養」扱いになっているのだ。昔の「大衆」に寄り添う芸能として、落語は確かに現代の「大衆」にとって高尚に感じるかもしれない。
……困った困った。これでは敷居が高いという声をただ増幅させただけである。
知識は持っていて損は無い。というか忠臣蔵くらい知っているかと(!)思っていた私にも問題はあるが、落語の本質はそこではない。
落語の本質?
……本質と言い出した途端に言葉が羽の如く軽くなる哀しみよ。いや、しかし思い切って言おう。落語の本質、つまり落語の面白さは人間臭さにある。
登場人物然り噺家然りである、出てくる人物は皆どこか抜けているしそれを許す雰囲気がある。またそれらを演じる噺家自体にも人間臭さといった魅力があり、落語のヘンテコワールドに説得力を持たせているのだ。
この人間臭さ、どこかで見覚えがあると思ったら、そう、
Bibleである。聖書である。
聖書に見出す人間臭さ
……そう思わないだろうか??聖書は神と人が交わした契約だが、そこには神がいかに人間を愛しているかが書かれている。そして人間の描写が、実にしょうもないのである。人間とは同じ過ちをいつまでも繰り返す、不完全で愚かな生きものである。しかし、何故か毎回反省するのだ。この素直さが人間らしさと言えるのか。
一番良い人間臭さの例を挙げるとする。
イエスの1番弟子、ペテロ
彼はイエスのことが大好きで、いつもイエスの側にいる素直だが少し向こう見ずなところのある元漁師である。イエスに足を洗って貰う機会があった際には、いやいや……と遠慮したが、イエスに「そうしないとあなたはわたしの仲間になれない」と言われて足だけでなく全身洗ってください!!と慌ててしまったりと可愛らしい(失敬、初代教皇に恐れ多いですね)キャラクターなのだ。(この場面について深く知りたい方はヨハネによる福音書13章を参照されたい)そんな彼の最も人間味あふれる場面を紹介しよう。
マタイによる福音書26章
イエスが捕えられ、犯罪者扱いされていた頃にペテロは身の危険を感じて身を潜めていた。しかし居合わせた人々に お前はイエスと一緒に居なかったか と聞かれ、私はイエスなんか知らないと否定する。この否定を三度繰り返した時、突然鶏が鳴く。するとペテロは、イエスから「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたことを思い出し、激しく泣く。
なんと人間らしい行動か。イエスに予言された時、ペテロは「私はそんなことを言わない」と憤慨さえしていたのだ。その後彼はイエスの言葉を多くの人に伝え、逆さ十字に磔にされ生涯を終える。キリスト教では初代教皇として威厳ある者に昇格したが、いかにも落語にいそうなキャラクターではないだろうか。
おわりに
嬉しいなぁ。とっても嬉しい。落語の笑いは普遍的だと感じさせる発見である。
ここまで書いて、大衆に寄り添わない文章となってしまった自覚が芽生えてきた。これは似非エッセイのような私のカタルシス発散の場でありますので、何言ってんだこのヤロウと喚きながら読んで貰えると大変ありがたい。それではどうも、長い間お付き合いありがとうございました。
またこんど!
瓦家持照良
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