見出し画像

対馬の漁村まち歩き(漁業編)

今年の8月、大学生高校生向けの2泊3日の実習を仕事でサポートしました。

対馬市豊玉市千尋藻(ちろも)という集落について、実習や対馬グローカル大学で学んだことを紹介します。

漁村 千尋藻

千尋藻は対馬の東海岸にある漁村です。対馬の中でも特に漁業で栄えた地域で、大きな船も沢山あります。イカ漁が盛んな頃には、100トン級の鉄船もあったそうです。
では、まずは、なぜここに大きな漁村があったのか?の紹介から

対馬の地理と生業

対馬は全島的に半農半漁の性格が強く、自給的な暮らしをしていました。しかし、まとまった田畑があるのは対馬の西側に限定されていて、東側は漁村的性格が強いです。
その理由は、対馬という島の成り立ちと関係しています。

対馬では、色々な場所で地層が露出しているところを見ることが出来ます。

千尋藻にも露頭があります


その多くは写真のように大きく斜めっています。本来水平に堆積する地層が斜めになっているのは地殻変動によるものです。
対馬ができるほどの地殻変動は日本や日本海の成り立ちにも深く関わっています。

元々、日本とユーラシア大陸は地続きだったと言われています。その後、後に西日本と東日本になる部分が太平洋に向かって移動することで日本海と日本ができます。
その時!西日本部分はまっすぐ太平洋に進むのではなく、観音開きの扉のように弧を描くように移動したと考えられています。その観音開きでいう“蝶つがい”の位置にあったのが対馬です。西日本が開くに従ってシワのように隆起したのでした。

対馬ではそのシワが、西側で緩やかな、東側で急峻な傾斜を作ったため、西側に田んぼが多く、東側は田んぼが少なく、漁業が発達しました。

対馬の漁業の歴史

対馬は海も近い一方で、朝鮮半島とも近いことから、漁業が中々発達しない島でした。
外国と近いということは、密貿易や密航なども起こりうるため船の航行が管理されてしまいます。対馬の島民は、基本的に建網を使った待ち伏せ型の漁と、貝や海藻を取る素潜り漁しか許されず、農業や林業を組み合わせて生活をしていました。
千尋藻も昭和ごろまではヒジキ、ワカメ、カジメという海藻漁も盛んでした。
海藻採りは家族総出で行うので、仕事の海藻休暇があったり、子どもも学校を休んで手伝っていたそうです。
ただ、今では、磯焼けによって海藻は全く見かけなくなってしまいました。これについては、また別の記事にて。

その他に、千尋藻では、イルカ漁も盛んでした。江戸時代には鯨組もありました。
集落の名前の由来は、千尋(両手の長さ=一尋 の千倍)の浦(浦が転じて藻になった)と言われています。大きな浦という意味ですが、ちょうど北向きに口を開けているように深く切り込んだ湾になっています。

ここに、対馬の東海岸を南下するイルカの群れが迷い込みやすいのではないかと考えられます。

イルカの群れを待ち構えて口を開けているような大漁湾

迷い込んだイルカは追い込み漁によって捕まえられます。対馬には、フナグローやフナゴローと呼ばれる10人程で乗る艪漕ぎ船があります。これに乗って、千尋藻集落が面している湾=オロシカ湾内でイルカ漁が行われていました。
フナグローは、沖縄のハーレーのような船で、速力と操作性を併せ持った木造船です。この船によってイルカも追い込むことができていました。
昭和の頃は、イルカの群れが入った時も子どもは学校を駆け出し、子供たちも協力してイルカ漁が行われていたそうです。

このように極々沿岸の漁は行われていましたが、一般的な魚の漁業が発達するのは、明治から昭和にかけてです。

漁業の自由化と漁民の移住

明治以降、対馬近海での漁が自由に行えるようになると、島外西日本各地から対馬で漁をする漁民が増えてきます。

対馬は、対馬暖流の流れに対して、斜めにぶつかる形をしていて、その結果、対馬の北東部に対馬渦という渦状の流れが発生します。さらに寒流も流れ込むため、エサが豊富な豊かな漁場になっているのです。そこには、ケンサキイカやスルメイカ、クロマグロ、アマダイなどなど様々な生き物が集まります。

漁が自由にできるようになれば人も集まります。そのことは神社からも分かります。千尋藻は大千尋藻と小千尋藻(古千尋藻とも)があり、それぞれ元々の神様の神社とお寺があります。その他に、金毘羅神社や恵比寿神社があります。これらは海の神様です。金毘羅様は四国の方たちが持ってきたのではないかと思います。

大千尋藻の金毘羅神社

このようにして、田畑が少ない地域も、島外からの漁民の移住と、それに伴う技術の伝播によって、漁村として栄えていくのでした。

イカと千尋藻

対馬の東海岸では、昭和以降、イカ漁が主な産業として栄えていきます。
対馬沿岸でのイカ漁が盛んな頃には、集落内に様々な商店も揃い、集落内で生活に必要なものが揃うようになります。
盆踊りや、フナグローを使った船の競走など、集落内の行事も賑わっていたようです。(フナゴロー/フナグローの語源は、船比べとも言われています)
イカは、開いて乾燥させて出荷していました。イカ割りも、家族総出で行い、子供たちも学校を休んで手伝うこともあったそうです。

イカを開いて干す様子はイカカーテンと言われていました。
次第に乾燥機を使って倉庫で干すようになり、さらには、回転させて乾かす機械が対馬で発明され、通称イカゴーランドの名前で全国に広がっています。

対馬近海でのイカ漁の水揚げが次第に減っていくと、今度は、イカの回遊に合わせて、日本海を移動し、佐渡まで、さらには北海道、サハリンにまで行っていたそうです。

フクイカは福岡での水揚げ許可、その上の赤字の島イカは島根での水揚げ許可を表しています。

日本海を回遊するようになる際、五隻の船が船団を組む五隻船団ができました。
気象予報が発達する以前は、嵐に巻き込まれることもあり、逃れるために、ソ連や北朝鮮に寄港したこともあったそうです。
また、イカを水揚げするために、日本海の各地の港にも寄ります。その中で遠方から奥さんを見つけてきた漁師さんもいたそうです。
千尋藻には、東北で多く祀られる妙見神社もあります。もしかすると東北をルーツにする人との交流と関連があるかもしれません。

船団による日本海の回遊が始まると、千尋藻の様子も様変わりします。イカの移動に合わせて半年以上家を空けることになるため、地域の行事を行う男手がいなくなってしまうのです。1970年代には、千尋藻のフナグロー大会もなくなってしまったそうです。

現在の漁業

今ではイカの資源量の減少から、イカ漁も衰退しています。
干しイカを焼いてハンマーで叩く、対馬の名物たたきイカも、今では見られなくなりつつあります。
かつての船団長も、輸送船の船員になるなど、大型イカ釣り漁船の数も減ってきています。

弊社では、対馬の海の保全として、海藻の森を再生させる藻場保全に関わっています。

ここまで、対馬の漁村とイカの話をしてきました。
次回は、千尋藻の文化についてお話します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?