(173)5世紀に仏教伝来の合理性
南無仏太子像(上半身部:奈良国立博物館)
教科書日本史では、仏教は百済から西暦53 8年に伝えられたとされています。小学生だったころ、「仏教伝来ゴミ屋さん」の語呂合わせで覚えたものでした。
調べると538年説は、奈良時代中葉の天平十九年(747)までに成立していたことが分かっている『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に「戊午十二月度來百濟國聖明王時太子像并灌佛之器一具及説佛起書卷一筐度」とあることに依っています。百済の聖明王のとき太子像と仏具一式、経典などが渡来したというのです。
「戊午」が538年に当たるので、それが通説になっています。百済の聖明王は523年から554年まで在位したとされるので、時間的な矛盾は生じません。
一方、『書紀』はヒロニワ大王(天國排開廣庭:欽明)十三年冬十月条に「百濟聖明王遣西部姬氏達率怒唎斯致契等獻釋迦佛金銅像一軀幡蓋若干經論若干卷」(百済の聖明王、西部姫氏の達率怒唎斯致契等を遣わし、釈迦仏の金銅像一躯、若干の幡蓋、若干の経論巻を獻ず)と記しています。ヒロニワ大王十三年は西暦552年に当たります。
「元興寺資財帳」と『書紀』では14年の違いがありますが、百済の聖明王がヤマト王統の大王に仏像と経典、仏具を贈ったという点で一致しています。ただ「元興寺資財帳」に記載されている「太子像」が「南無仏太子像」のことだとすると、聖明王が聖徳太子を知っているはずがないので、『書紀』の記事(552年説)を受けた天平期の創作かもしれません。
それはそれとして、『梁書』諸夷伝扶桑國条は、「宋大明二年罽賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像」と記しています。宋の大明二年(458)、罽賓國(インドのカシミール地方またはガンダーラ地方にあった古代小国)の五人の比丘(仏教修行者)が扶桑國に至って仏法と経典、仏像を伝えたというのです。7世紀中葉にササン朝ベルシアの王子と王女がヤマト王権に保護されたことが『書紀』に記録されていますから、あり得ない話ではありません。
もし扶桑國条にある「乙祁」王が『書紀』が伝えるヲケ王/オケ王のことで、「扶桑國」が倭國の異称だとすると、教科書日本史の説明より100年も前に仏教が伝わっていたことになってきます。
もちろん『梁書』は倭國を「去帶方萬二千餘里」としていますし、文身國/大漢國/扶桑國を別のものとして記述しています。前述の「もし」は無視していいのかもしれません。
ですが、『梁書』扶桑國条の「宋大明二年」が成り立たなかったとしても、5世紀中葉以後の倭國または倭地(倭國に属さない倭人の地)に仏教が伝わっていた可能性は否定できません。記録に残っているだけで60年間に9回も使節団が往来したのが根拠です。
また倭王武の上表文から類推するに、当時の倭王権が華夏の思想を輸入してミニ中華を構築しようとしたことも、一つの傍証となります。宋で大流行していた仏教に、倭王の使者が目を向けなかったはずがないのです。
もう一つの傍証は、オホド大王(継体)の代までに、王仁が『論語』十巻と『千字文』一巻を伝え、五経博士の段楊爾、高安茂が倭國に『易経』『詩経』『書経』『春秋』『礼記』といった漢籍をもたらしたという『書紀』の所伝です。状況証拠は「5世紀中葉に仏教が伝来していた」とする合理性を肯定するでしょう。