(110)倭國の王はオホササギ
大仙陵古墳(共同通信)
建立された当時の好太王碑に刻まれていたのは、1802文字と推定されています。そのうち「倭」関連の記事に140文字以上を費やしているのは、好太王にとって「倭」がいかに煩わしい存在だったか、いかに大きな事件だったかを示しています。
ところが『三國史記』『日本書紀』は詳細な記録を全く記載していません。最大の要因は、基礎となる史料がなかったためでしょう。墨を摺る硯や墨書痕の残る土器片の出土などから、韓地、倭地で木簡墨書が行われていたことは十分に推測できます。
しかし公文書として記録され保存されていたか分かりませんし、史籍編纂までに散逸していた可能性が大いにあります。
もう一つ想定されるのは、不都合な事実を隠蔽する身贔屓です。
『三國史記』は新羅王族の後裔・金富軾が編纂したしたので、新羅王の不名誉な出来事は「なかったこと」にしたかったでしょう。『書紀』の場合は、オホアマ大王(天武)の曾孫であるオビト王の王位継承を万全にし、その政権を盤石にするという大命題がありました。
ただ、碑文を軸に『三國史記』と『書紀』を照合すると、出来事のあらましを再現することができます。好太王の本隊が百済の陽動活動に引きつけられている間に、加羅・倭連合軍が金城(新羅國の王都)を落とし、翌年派遣された高句麗の大軍が金城を奪還し倭軍を追い詰めたかに見えたとき、倭軍の別働隊である安羅軍が金城を再度占拠したのです。
金城をめぐる駆け引きに好太王は翻弄されたわけでした。この一連の作戦を練ったのは百済國ではありません。「倭」もしくは「倭國」に相当の知恵者がいたということになりますが、それが誰であったかは特定できません。
本連載第26回「春耕と秋収で年紀を計る」、第27回「重複の干支を割愛する考え方」で使用した日本書紀歴代大王編年表によると、好太王碑文における「高・倭戦争」(西暦391~408年)のヤマト王統はオホササギ大王(仁徳)です。
しかしホムダワケ大王(応神)三年条に「是歲百濟阿花王薨」が登場しています。『書紀』の阿花王は『三國史記』阿莘王のことで、阿莘王の没年は西暦405年なので、年紀に干支一巡(60年)のブレが埋め込まれている可能性が認められます。
ホムダワケ大王は新羅征伐のエピソードを持つ神話の女王を生母に筑紫で生まれ、奈良盆地から迎撃に出てきた王を撃破してヤマト王権の王位に就きました。実質的な王統の開祖ですが、「胎中天皇」の異名を持つように、彼もまた神話の人物です。
ということから「高・倭戦争」はオホササギ大王治世の出来事と言っていいようです。 オホササギ大王は大阪府堺市の百舌鳥古墳群の主墳である「大仙陵古墳」の被葬者で、淡海三船が名付けた「仁徳」天皇とするのが定説です。
巨大な墳墓をいくつも築造し、朝鮮半島に兵を出して高句麗軍に戦いを挑み、いちどはその王都まで迫った――初代ミマキイリヒコ大王(崇神)から150年の間に、倭地は弥生邑國連合から強大な中央集権的軍事国家に生まれ変わったことになるのですが、素朴な疑問は「そんな余裕があったの?」です。