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ひねくれについて考える
自分は捻くれているのか。
そう聞かれたら、私は間違いなく頷くだろう。
多分私はいろんな物をうっすら見下してるし、悪口とかも結構好きだ。
だが、私は自分のことを素直だと思っている。
ここで、矛盾が発生する。
ひねくれると素直は基本的に正反対の意味を持つ言葉だ。それなのに、ひねくれと素直が両立することは可能なのか。
そもそも、私の思う自分のひねくれた部分は本当にひねくれているのか。逆に素直だと思う部分は本当に素直なのか。
改めて、考えてみようと思う。
素直から見る
「ひねくれ者」で検索したところ早速「性格が曲がっている人、素直でない人」と出た。逆に「素直」で検索すると、「まっすぐ、ありのまま」といった単語が出てくる。
ひねくれ者が素直でないとするならば、先に素直さについて見つめるとしよう。
まっすぐ
これが実際にどういう性格なのかを説明するのは簡単なようで難しい。
というのも、素直で調べた時まっさきに「感情や考えを表現するのがストレート」だと出たからだ。
思ったことをそのまま表現する。
私は、そうすることもあればそうしないこともあるのだ。
特に嬉しいとか楽しい、相手を褒めるといったポジティブな事に関してはまっすぐ伝える方である。
なぜなら、伝えて悪いことが何もないからだ。自分も嬉しいし相手も嬉しくなることが多いだろう。感情表現が豊かかは一旦置いておいて、そこに嘘偽りはない。
一方で、怒りとか悲しみといったネガティブな感情はあまりストレートに表現しないことが多い。
というか、ここでいうストレートという表現も自分には曖昧に思う。
「嫌だ」とか「悲しい」と言葉にすることがストレートなのか、それとも感情を表に(言葉以外を使って)表現することがストレートなのか。
前者を指すなら、素直であると言える(時が多い)。
後者なら、素直だとは言えないだろう。
というのも、istpあるあるかもしれないが感情を表に出すのが苦手だ。
例えば、嫌だと伝える時があったとして、私はおそらくそれを笑いながら伝えるだろう。怒った顔をして、悲しい顔をして嫌だと言うより、笑いながら言った方が「嫌だ」という意思は伝わりつつ(どこまで伝わっているかは不明)場の空気は悪くならないと信じているからである。
とどのつまり、「言葉」だけにフォーカスを当てるなら私は素直な人間だし、感情と言葉以外の表現媒体を結びつける部分を含むなら私は素直な人ではないのだ。
アウトプットという面で考えた次は、インプット面で考えてみよう。
これも先ほどと同様に「まっすぐ」をキーワードとして考えてみる。
相手の言葉を深読みせずそのまま受け取るか、という意味では私はまっすぐだと言える。
だが、受け取った後にどう判断するかという過程はまっすぐとは言えない気がする。
具体例を出すと、初対面の人に会った時に「面白い人ですね」と言われたとしよう。私はその言葉自体は特に疑いもなく受け取る。その人の自分の印象は面白い人で間違い無いのだと。一方で、「それは気を張ってコミュニケーションしてるからで、本当の自分のことは知らないよね」と考える。なんとも歪んだ判断である。
そしてこの歪んだ判断は、言葉を受け取る前の思考と強く結びつくため、元々深く考えていない分野や興味のない事においては判断の過程で歪むことも少ないのである。
(istpが大して興味のない分野で「へー」とか「なるほどね」が多くなるのは、話を広げたくないなんて事ではなく、特に疑問を抱かずそのまま受け取った故のリアクションとも言えるかもしれない)
こうやって分析してみると、アウトプットもインプットも外側と内側にかなり差があるように思う。ここで外側をさす「言葉」というものには、基本的に嘘偽りや変な歪みもなく実にまっすぐ向き合っている。のに対して内側を指す「感情、思考」は決してまっすぐとは言えない歪みまくった状態であるのだ。
mbtiでいう、判断機能のTiはひねくれているが知覚機能のSeはまっすぐで素直ということだろうか。
いや、言葉と知覚機能は私の中であまり結びつかないので、一旦この話は無かったことにしよう。
結論、素直が感情や意思表現のどこからどこまでを指すのかによって変わると言えるだろう。
また、内側の歪んだ部分は本当にひねくれているのか。
先に、自分が元々こだわりがない(興味がないも含む)ことに関しては内側もそのまま受け取ることを言っておきたい。つまり、歪んだ判断は元の思考と擦り合わせた故の判断でしかないのだ。元から歪んだ見方しかしないのでは断じてない事を強く主張したい。
言葉自体は基本そのまま受け取るので、それもそのはずである。
自分の中で思考する機会があったもの、つまり何かしらのこだわりがある物は、おそらくその思考の過程で譲れない価値観が発生し、故に外からのものをまっすぐ受け入れられない、または発信できないのだと考える。
私にとって思考とは自分のアイデンティティそのものといっても過言ではない。自分を知り、価値観を形成する重要な部分である。そのため、一度そういった思考の過程があったものは外側と簡単に結びつけることができないのだ。そこに歪みが発生し、結果いわゆる「ひねくれ」に繋がる。
とすると元の性格がひねくれているというよりは、ひねくれた思考を都度生み出していくといった感覚の方が近いかもしれない。(というか、ひねくれ者とは実はこの過程を通して生み出したひねくれ思考の数が多いかどうかでしかないのかもしれない)
きっと、この自分がこだわる部分さえも外側と簡単に結びつけられる人が真に素直な人なのだろう。
ただし、おそらくこだわりが世間一般に比べて少なめな私は大枠で見たら素直な人に分類できるのかもしれない。
そしたらまあ、100%素直な人にはきっとなれないので、数十%のひねくれな自分を上手に扱いながら生きていければいっか。
など思った話。