毎日1000文字エッセーを12日やる、7日目「哲学」
いよいよこの企画も折り返しだが、なかなか重い題材なこと。
私の初めてのnoteを読んでくれている人は私の名前が「哲学的」な「ゾンビ」という意味ではないことは知っていると思う。あと名前の由来も。
これを書いたのはちょうど一年前ぐらいか。あの頃はまだ文系の授業を取っていて、貯金があった時期か。
現状大学二年生では工シス開講の必修・選択必修しか取らなかった。
そして本は本当に読んでない。
一番は思考をやめてしまったことだろうか。
哲学とは根源的な何かを考える営みだと考えている。
そして結局私はその中でも西洋哲学の感じしか受け入れられていない。(この辺の話は「哲学・宗教学入門」を受講した人は聞き覚えがあるだろう。)私は未だに「初期仏教の感じが良かった。後半変な大衆ウケするような神の概念持ち出してきたせいでよろしくなくなった。けど仏教芸術は好きだからそこだけは評価する」みたいなことを言っている。
そしてその西洋哲学についても最近本当に触れていない。
一年間思想や単語を磨かないと本当にダメである。
ちなみに単語やら人物の思想についてを覚えたり思想を磨く、という意見に対して、それは真理に対し責任がないのではないか、という意見もありそうだが、自分で色々納得して使う分には問題ないと思っている。なんというか、その自分の意見の援用に使う分には良い、みたいな。
あれである、定義からいちいち証明するのはあれだから途中でお偉いさんが証明した定理を用いる、みたいな感じである(だから一回使う定理は証明しておかなくてはならないが)。
のはずだったのだが、一年生のうちはその証明過程を忘れてしまったから、枝葉の部分で間違いが起こり、結果に微妙な、しかし致命的なミスが生じてダメになってしまった。哲学通論b、59点落単のことである。
あの辺の内容は普段から考えているつもりだった。先生の話とかを聞いてる限り多分大丈夫そうだ、自分はその授業で提示された定理に納得していると思っていた。しかしそれは恐らくうわべだけと判断された。
もう二年生になってから本当に何も考えずに生きている。生きる意味だとか自分は何をするべきなのか、そういうものは全部権威に丸投げして、自分は工学のこと(実際は単位のこと)しか考えないようになってしまった。
証明したはずの結論すら覚えていない。
もう真理なんてどうでもよいのかもしれない。
もう小学生低学年の時、21時ぐらいに布団の中で、「死んだら無になってしまう」と思いを馳せ、今生きているという感覚に恐怖を覚えたあの頃は存在しない。
今布団の中でそのことを考えても「今日も28時まで起きてしまった……眠い」しか考えられない。(1098文字)