書くことがない。

──このツイートからすべてが始まりました。──

どうも、哲学的ゾンビと申します。筑波大学の理工学群工学システム学類1年生です。
恐らく大部分はTwitterに張り付けたリンクから来てくれた方がほとんどだと思うので自己紹介はしませんが、もしnoteから来てくれた方は私のTwitterアカウントをフォローしてくれるとどんな人間かわかると思います。(まあネタツイートをひたすら大学垢でしているような人間です。)

さて、一番最初に挙げたツイートの通りです。なので約束通りエッセイを書きます。
補足説明をしておくとFFが「このツイートに10いいね来たら秋c終わりまでなに何かしらのシナリオ書く(来ない前提)」というツイートをしており、私はシナリオを書けませんが、別の友達が最近noteでエッセイを書いているのを思い出し、それらを踏まえて少し改変してツイートした次第です。鍵垢だから8ふぁぼぐらいで終わると思ったんだけどなぁ。

まあここから雑文というか書き殴りが始まりますが、生暖かい目で見てください。

実は女性!?彼女は?実は頭が良い?哲学的ゾンビについて調べてみた!

まずエッセーについてコトバンクで調べてみました。すると、

自由な形式で書かれ、見聞、経験、感想などを気のむくままに書き記した文章。随筆。

精選版 日本国語大辞典「エッセー」の解説

と書いてありました。
ということで見聞や経験、感想を書けばよいのでしょう。

……なにも思いつかん。
見聞や経験、感想なんてありません。
私にそんなエッセーを書けるような人生送ってきていません。
そもそもここまでの文章を読んでいただければわかるように、蛇足で、冗長で、無駄ばかり。脱線して中身がなく、つまらない。
大見出しでよく出てくるアフィカスの物まねをしてみましたが、よく馬鹿にされているように情報量が薄く、中身がない。本当に似ている。
しかもこのnoteだけでなく、普段の話している内容もこんな感じである。Twitterでごくまれにスペースを開くのだが、基本的に雑談スぺースの場合はTLに流れてくるツイート全部見て、スペースに言及しているツイートを拾ってお話をする、という感じだがこの時、このnoteのように話題がそれにそれまくる。私はこれを「樹の幹から枝分かれするよう」と言っているが、枝分かれした先から幹に戻れなくなったりする。(ちなみになんとなく名言っぽかったので太字にしてみたが特に意味はない)
本当に、なんというか口から出まかせの男である。

誰かからも言われたけど、「お前は本当に口先だけの中身のない人間である」らしい。その通りである。今年1年な~んにも成長しなかった。
逆にますますピアノが弾けなくなった、クイズで使えるような雑学が出てこなくなった、作曲が下手になった(機器は良くなったにもかかわらず)、maimaiは下手になった、頭が悪くなった、本を読まなくなった、様々な分野に興味を持ちたいと思っていたが口先だけ、など。
俺は常々「大学でやらなくなるからと言って、高校で習った分野を忘れるような大学生になりたくない、理系だろうと何だろうと日本史はやるべきだし、物理化学専攻だとしても地学もやるべきだ。」と言ってきていた。
しかしどうだろう、そう思って本棚においてある教科書群は埃を被り、専門分野以外の知識どころか専門分野の数学さえ忘れて、そのせいで必修落単していたりする。カスである。

名前の由来

ところで話は変わるが、私の「哲学的ゾンビ」の由来はご存じであろうか。

哲学的ゾンビとは、以下のような意味である。決して哲学的なゾンビという意味ではない。


言動や社会性の面でも、生理学・解剖学的にも普通の人間そのものだが、内面的な意識を持たないという、思考実験上の存在。
[補説]オーストラリアの哲学者D=チャーマーズが提唱。哲学的ゾンビが、喜怒哀楽などさまざまな感情を表出したとしても、それは内的な情動の発露でなく、機械的な反応・演算の結果として出力しているに過ぎないが、現実の人間がそのような存在でないと証明することはできない。

デジタル大辞泉「哲学的ゾンビ」の解説

まあ要は君たちは俺とTwitterでお話ししていて、「あ、哲学的ゾンビくんってアカウントは工シスの中の人が運営しているのね」って思っているかもしれないが実際は人間じゃないかもしれない、ということである(拡大解釈)

そうすると一つ思い出す話がある。イライザである。

1960年代にマサチューセッツ工科大学(MIT)コンピュータ・サイエンス学部教授を務めたJ・ワイゼンバウムJoseph Weizenbaum(1923―2008)によってつくられた文字による対話システム。(中略)あたかもそのことばを理解しているかのように反応するようにしてある。

 ELIZAは、簡単な仕組みだけで、話の内容を理解せずにそれらしく会話を続けるプログラムとして提示されており、知能をもつものとは考えられていない。

日本大百科全書(ニッポニカ)「ELIZA」の解説

この哲学的ゾンビは人工知能の話と結び付けられるな、と思っています。
チューリングテストの話でもしようかとも思ったけど字数稼ぎになるからもうあと各自で調べておいてください(投げやり)。
私は人工知能に興味があります。そして哲学も興味がありました。
そして人工知能に関してはなにか職業として、哲学は趣味としてやりたいと思っていました。
さらに私はハンドルネームは今まで一般名詞か固有名詞(恥ずかしながら好きなアーティストの名前をハンネにしていた)にしていたので、他の人と被らない一般名詞を探し、かつ人の名前としておかしくなさそうなのを探した時、哲学的ゾンビになった。(他にも、「中国人の部屋」も候補に一瞬上がったが、ハンネっぽくなかったのですぐさま却下)

そんなこんなでつけた名前だが、受験垢(現在削除済)で「大学垢の名前、マジで人と仲良くする気のない名前だなぁ()」みたいなツイートをしたことを覚えている。だって哲学的ゾンビを名乗るってことはただあなたの入力(話しかけ)に対して人間らしい出力を返しているだけ、って宣言しているようなものだから。

現在、「哲学的ゾンビ」は哲学的ゾンビという一般名詞ではなく、ITF.の人間にとっては固有名詞となっている。哲学的ゾンビの「的ゾンビ」(例えば実学的ゾンビなど)のように名前が遊ばれることもしばしばあり、そしてなによりこのような事例からわかるように一般名詞としての「哲学的ゾンビ」を知らない人が多い。

また話が脱線してしまった。何が言いたかったというと、皆が一般名詞としての「哲学的ゾンビ」として俺を認識はしていなくても、代わりに俺が一般名詞的な意味での哲学的ゾンビになってしまったように感じる。(いきなり後半の話出してん?と思ったかもしれないけど今から説明します。)

本当に人が言ったことに対して、どうしたら面白いか、自分の意思とは関係なしに口先だけでツイートするし、現実でもツイートするように話すようになってしまった。
どうすればウケるのか。ウケなかったとしてもどのようなことをしたら俺は自分自身を面白いと思えるのか、そういう入力に対する出力しか考えなくなってしまった。
大事なのはそのブラックボックスの中身である。人工知能と人の違いなんて結局存在せず、あるとするならば魂があるか否か、である。(この魂の説明は難しいが、いうなれば自然に備わっている意識、というべきか)
しかし私の行動はブラックボックスの中身はどうでもよい、といったような感じである。魂なんぞあろうとなかろうと関係ないといった具合に。

中身がないという話をしたとき、最初見聞や経験、感想がない、って言っていたが、こうなってくるともう魂さえないのかもしれない。
何なら人工知能に見聞や経験は存在し、良く学習させることができる。
人工知能未満である。
よく人工知能が仕事を奪うといい、特に将棋は人間なんかよりもAIの方が強くなってしまった。
しかし今でも将棋は日曜日の昼放送されているし、ずいぶん前にコンピューターに勝てなくなったチェスは今なお人間が戦っている(最も、コンピューター使ってズルすることが流行っていると聞いたことがあるが。)
大事なのは人間が行っている、ということである。
最近絵やら音楽やらがAIがよさげなやつを作ってくれるようになった。
そうしたらt+pazolite様や望月けいさんは仕事はなくなるのだろうか。否。ブランドがあるし、この人が作った、ということが大事なのである。(もっと厳密な話(例えばt+pazoliteの曲を学習させたとしても、t+pazoliteという人間が作ったものがすごいのであり、人間特有の生成の揺らぎは人工知能が再現できるとはまだ思えないということ)が必要であるかもしれないがとりあえずこの話はこれで勘弁。)

しかし私は人間なのだろうか。魂あるものが何かするから意味があるのであり、私のような機械的な人間は意味がないのではないか。

過程が大事とよく言ったものであるが、本当に過程も何もない。ただうわべだけ、良い出力を得ようとして結果つまらない人間ができてしまった。

書くことがない、と言いつつ2時間で3,700字ぐらい書いてしまった。
こういうのをレポートにしろ、と思うがこの構成も何もありゃしない駄文出したら評定Dになってしまうため、1000字のレポート書くのに1日かかるのは仕方ないといえるかもしれない。

1個1個のセクションの行数が少なくなってきた。もう書くこともないからまとめたいが着地点が存在しない。
まあ中身のない人間であり、なんというか思想というか、確固たる何かを持った人間になって、それに基づいた行動ができる「人間」になりたいですね、という話でした。早く人間になりたい。(俺は妖怪人間なのか?)
と考えると、誉め言葉として受け取ったどこからか聞いた「哲学的ゾンビは思想がないから変に身構えなくても見れて良い」っていうのは本当は良くないことなのかもしれないですね。