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文化に立ち向かえ。すすめ、たまに逃げても。

あなたにとっての当たり前は他人にとっての当たり前ではないって腑に落ちますか?

いやいやそんな事言われなくても分かるよって人ほど、僕は身構えてしまいます。
自分の常識の外にあるものを好奇心を持って個性として受け入れられる時もあれば、未知で怖いものだと拒絶してしまう事もあると思います。うんうん、それでいいのだ。

特に生まれた場所や家庭に根付く当たり前は受け取る側が自由に選べない上に、感じ方の個人差も多い気がする。違和感を感じても行動として表に出せる空気感じゃなかったり、恐怖政治で弾圧されたり。
そんな澱んだ感覚は文化と言えるのではなかろうか。はぁ‥言いたくないけど。

文化は無言の圧力で、逆らえない流れのようなものを感じます。
よそはよそ、うちはうち なんて良い例で、ほんっとに無責任で傲慢な言葉だと思う。なんで?どうして?から逃げた無意味な回答。そこに思考の余地などなく拒否権など作らせていない。

個人の尊厳を脅かす文化はキライです。相手が嫌がろうとも自分達の当たり前や欲望、快楽、はたまた逃避のために傷つけることのこと。文化だからという曖昧な同調圧力を大義名分かのように振りかざす人間なんてホントもーさいあくです。ふぁっきんうんち。ダイキライ。

とはいえそれは僕の感覚での話であり、尊厳は個人の自由なので簡単に口出しは出来ない。成人の節目に身体に傷をつけてしるしを残す文化だって彼方の地にはある。
痛いからやりたくねぇ〜‥え?泣き言も言っちゃダメなの??そんな〜〜〜‥なんかお酒の強要みてーだぁ。

もしもお友達のいる隣町にそんなしるしの文化があったのならば、僕の中では悪となりうる。遠いから悪じゃないだなんて我ながらひっどい偏見だけど、国の違いは歴史の違い文明の違いに他ならないのでどうかおめめをぱっちんしておくんなまし。自分の手で包める範囲の納得できない文化にはイヤイヤしちゃいます。えい!やー!たろうくんが嫌がってるだろー!まいふれんずの心と体を傷つけるな〜!ってね。日和るときも多々あるけど‥。

だけどね、例え僕が納得できなかったとしても、それがその人にとって心から納得している答えだと分かったのなら、その時はスッと手を引きましょう。あれ‥手が離れない‥ぐぐぐ、べりべりべり‥

当たり前と押さえ込まれる環境の中で、心にささくれを感じて生きている人が報われる世界がいいね。でもそれを全て変える事ができたら僕は神様になってしまうので、僕の側にある気に食わない事象を穏やかに変えられるように頑張るのだ。にんげんでいたいものわたし。

ムスリムの知人のお祈りに参加したことがあるけど、その場ではいわゆる司祭ポジの人が前に立ち神の教えを読み上げ、その後その教えについての自分の考えを語りかけていた。
そこでとても刺激を受けたのは、信心は自身で決めたこと。教えをただ享受するのではなく、自己を見つめて落とし込んでいたこと。

文化は受け継がれてきたものだけど、その受け皿は自分なんだと感じた。

ほぼ無宗教みたいな現代っ子つきおでも快く受け入れ、信心は個人の自由だからと誰しもが当たり前(同調した当たり前感覚ではなくごく自然な生活的感覚)に受け入れてくれた。文化は誰のものでもなく、そのコミユニテーに属する人間が、自分自身で拓いていくものなのだなぁと思った。

人間生きて年を重ねれば他者との交わりも積み重なって、不快なことも沢山増えるけど、当たり前ではないんだ。誰かが傷つかなければいけない真っ当な理由なんてないんだ。はうえばー文化に絶対的悪はあんまりないかもしれない、自分で抱え込んでしまう事もあるかもしれない、けど、違和感がちくちく刺されるならそれはあなたにとって悪で切り離していい良いことなのかもしれないんだ。

つらつら書き溜めましたが実は一言で済むお話しでごぜーまして、つまりは尊敬する人や大切な人には傷ついて欲しくにゃーですっていう訳なんですね。いっつあしんぷるりーずん。

文化に流されて諦めてボロボロにならないで。立ち向かう方が苦しく傷みを感じるだろう、けど。
時に逃げて漂いながらも、すすめ、すすめ。

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