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世界中のこども達と友達になりたくて#かなえたい夢

「うちの子どもをどうしようが勝手だろ!はやく返せ馬鹿野郎!」

2つ隣の部屋から聞こえてきた怒声。
机や椅子が蹴り飛ばされる衝撃音。
私の腕の中で泣くこともなく表情が消えてしまっている1歳の子。

大学3年生の秋。施設実習で行った乳児院での経験が、10年以上経った今でも私の頭に、心に、深く刻まれている。

そして私は今、あの時のあの子達へ届けたくて、絵本作家になるという夢に挑戦しているのだと気づいた。



昔から子どもと関わることが好きだった。
4つ下の弟のお世話をするのが楽しかったし、友達の弟妹と遊ぶのも得意だった。

そんな私の将来の夢は幼い頃からずっと変わらず、“保育士になる“ことと“おかあさんになる“ことだった。

大学受験の時も特に悩むことなく、保育系の大学に進学した。保育士資格と幼稚園教諭第一種免許取得のため、保育実習とは別に施設実習が必須で、児童養護施設か乳児院のどちらかを選択できた。保育の心理学や社会福祉の授業で乳児院の子ども達のことを学んだ時、私もその子達の安心できる場所となり支えられる大人の一人になりたい。そんな風に思って、就職先としても視野に入れ実習先に乳児院を選択した。

乳児院は、保護者と暮らすことが困難にある乳児が暮らす施設。その理由は、保護者の病気や死別、虐待、貧困、など様々であるが、私の乳児院に対するイメージは虐待が1番強かった。

だからそれなりに事前学習にも取り組んでいたし心構えも持っていたつもりだった。
が、“それなりに“なんて全然甘かったということを思い知ることになる。

実習1日目。私は1歳児クラスから入ることになった。クラスには様々な理由で入所した子ども達が15名前後いたと思う。しかしそれぞれの子どもの入所理由は聞かされていなかった。それでも保育室に入った瞬間、虐待を受けて入所したのだと分かってしまう子どもが数名いた。

小さなからだに隠しきれないほどの無数の痣がある子。骨が透けてみえそうなくらいに痩せ細ってしまっている子。眼帯からはみでるほどの痣のある子。

私が泣いちゃいけない。そう思って、涙が溢れてきてしまうのを耐えようとはするものの、どうしても溢れてきてしまう。そんな私をみて担当の職員の方が「月野先生が泣いちゃうと子ども達も不安になるからね。今日は子ども達に月野先生を覚えてもらう日だから、笑おうね」と声をかけてくれた。

そうだ、私はこの子達の安心できる大人の一人になりたくてココに来たんだ。しっかりしなければ。職員の方の言葉で冷静になることができ、子ども達とコミュニケーションを取り始めた。

いつもと違う先生(私)に興味を示し、距離をとりながらも様子をうかがう子。人見知りすることなく全力で甘えてくる子。私と関わろうとはせずいつもの職員の方にしか近寄らない子。子ども達の反応は様々だったけれど、それは保育実習で関わった同年齢の子ども達と何も変わるところなんてないように思えたし、全員が可愛くて愛おしかった。

しかし一人だけ、様子が違う子がいた。眼帯からはみでるほどの痣のある子、と書いた子だった。この子のからだも乳児とは思えないほどに細く、シャープペンシンルの芯のように少しでも力を加えてしまうと簡単に折れてしまいそうな、そんな姿をしていた。

その子は誰の声かけにもあまり反応することはなく、表情もほとんどが“無“であるようにみえた。言葉を発することはなく、たまに「あー・・・」「うー・・・」と、か細い声、というより“息“の方が近いような、そんな風に何かを訴えることがあるくらいで、おもちゃを近くに置いても遊ぶことはなくボーッとしている時間がほとんどだった。

そんな姿をみて、その子の背景を考えずにはいられなかった。何がどうなってそうさせてしまったんだろう、きっと私なんかには想像もできないほどに酷い経験を、たった一歳の子どもが、なぜ・・・。初めて目の当たりにした“虐待“の恐ろしさに、痛々しさに、悲しさに、頭も心もぐちゃぐちゃになった。

しかし実習を何日も重ねていくうちに、その子の表情は完全に“無“なわけではないことに気がついた。本当に微かだけれども、“無“の時と“嬉しそうな表情“の見分けがつくようになったのだ。

好きな職員さんの膝の上に座っている時、好きなおやつがでた時、絵本をみている時、そんな瞬間にほんの僅かだけれども、間違いなく、嬉しそうな表情をしていたのだ。

それに気づいてから私は、その子と関わる時には必ず持参した絵本を読むことにした。アンパンマン、いないいないばあ、はらぺこあおむし、きんぎょがにげた、などなどなど。私の膝の上に抱っこした状態で、絵本を読む。絵本の内容がその子にどれくらい伝わっていたかは分からないけれど、顔を覗き込むと嬉しそうな表情をみることができると私もとっても嬉しかったし、なんだか安心もできた。少しずつ、もっともっと、その子の色んな表情が分かるように関わっていきたいと思ったし、楽しいこと好きなことをたくさんみつけて、その時間を増やせていけたらいいなと思った。

その日もちょうど、その子に絵本を読んでいる時だった。突然男性の怒鳴り声が聞こえてきた。机や椅子が蹴り飛ばされたであろうガシャーンという衝撃音や、職員の方が内線で人を呼ぶ声、保育室に鍵をかけ廊下側のカーテンを閉める指示、怒鳴り声が聞こえてきた方の部屋に向かって走っていく足音。今でも鮮明に思い出せるほどに、衝撃的な瞬間だった。

「うちの子どもをどうしようが勝手だろ!はやく返せ馬鹿野郎!」
ハッキリと聞こえたのはこの言葉だけだったけれど、その後も男性の声や職員の声が飛び交っていた。その声ややり取りにも恐怖を感じたけれど、私が衝撃を受けたのは子ども達の様子だった。

突然響き渡った怒鳴り声や衝撃音を聞いて、ひとりが泣き始めるとつられるようにしてほとんどの子が泣き始めた。事態に気づいていなかった子も、友達の泣き声を聞いて不安になっているようだった。

しかし私の膝にいたその子は、周りの子がいくら泣いていても“無“だったのだ。よくみかけていたボーッとしている様子ともどこか違う感じで、今思えばフリーズしていたのではないかと思う。

その子以外にも、尋常じゃないくらい怯えて泣いている子や、逃げ回るように暴れている子もいた。その様子をみて、私は色んな感情がぐるぐるぐるぐる永遠に渦巻いていた。そしてそれは今でも晴れることはないし、きっとこれからもこの渦は私の中にあり続けるのだと思っている。

結局その怒鳴り声の男性が誰の保護者なのか、なぜそうなったのか、そういった詳しいことは実習生である私には何も分からないままだった。顔もみていないし、どこの誰なのかも分からないけれど、私はあの人を一生許せない。あの人に感じた怒りを、恐怖を、悲しみを、忘れることはないし忘れてはいけないと思っている。

乳児院は、保育園や幼稚園とは違う。24時間365日生活をする場であり、児童相談所の判断を受けて入所する子ども達しかいない。ひとりひとりに入所する背景があり、本来であれば保護者からの愛情をこれでもかと受けるべき時期に、集団生活をしなければいけない。

職員がどれだけ愛情をかけたとしても、子どもの人数に対して職員の人数の方が少ないことは変えられないし、シフトによって人が入れ替わることも避けようがないし、どうしても足りない部分というのは出てきてしまうだろうと思う。

知らなくてもいい感情を知っている子ども達。
知らなくてはいけない感情を知らない子ども達。安心できる場所であるはずの乳児院の中ですら、突然上記のようなことが起きてしまうこともある。私が経験したその時のようなことだけでなく、もしかしたら私のように実習で短期間だけくる知らない人の存在も、あの子達にとっては恐怖や寂しさを煽ってしまう場合もあるのだろうとも思った。

乳児院で働いてみたい。
実習前はそんな風に思っていたけれど、その考えの浅さに私は私をぶん殴ってやりたい気持ちになった。

乳児院は生活の場であること。
乳児院で働くのであれば、子ども達にとって先生でもあり家族でもある覚悟を持たなくては、働いてはいけない場所であると思った。就職してから、“やっぱり辞めます“なんてことがあってはいけないと思った。結婚したから辞めます、妊娠したから辞めます、人間関係が上手くいかなかったので辞めます、そんな風に辞めてしまったら、残された子ども達をさらに傷つけてしまうことになるのではないか。子ども達を守る覚悟、子ども達と生活する覚悟、様々な背景を抱える子ども達と向き合う覚悟、私にはそのどれもが全く足りていなかった。

実際にはその激務から職員の入れ替わりも多いとも聞くし、自分の人生を優先させて辞める決断をすることは悪いことではないのだろうと思う。やる前から辞めることなんて考えず、飛び込んでみればまた違う考えを持ったのかもしれない。だけど私は、中途半端な私があの子達に関わってはいけないと思ってしまった。そんな風に言いながら、ただ逃げただけなのかもしれない。自分の情けなさに、自分が一番がっかりもしている。


そして私は無事に保育士資格と幼稚園教諭第一種免許を取得し、“保育士になる“という夢を叶え、その数年後には“おかあさんになる“という夢も叶えることができた。

残念ながら保育士の仕事は辞めてしまったけど、保育士としての仕事は本当に楽しくて天職だと思えるほどに充実した時間を過ごさせてもらえた。そして私は今7歳の子と6歳の子のおかあさんとして、毎日我が子達と向き合う日々を過ごしている。

そして今私は、絵本作家になるという夢に挑戦し始めた。きっかけは娘の塗り絵だった。葉っぱの塗り絵をカラフルなにじ色で塗っていて、こんな風に話してくれた時のこと。

「にじいろってね、みんなの好きな色が入ってる色なんだよ。ママの好きな色がコレでしょ?コレはパパ、コレはばあば、コレはお友達、、だからね、みんなの好きな色だから、にじいろが1番大好きなの!」

娘のの言葉

娘のこの言葉を聞いた時、今まで自分の中で渦巻いていたものが一瞬だけ晴れるのを感じたような気がした。

我が子達が成長してきて自分の時間というものが出来てきた時、保育士としてまた働きたい気持ち、でも我が子達との時間を大切にしたい想い、それと同時にあの施設実習の時に感じていた渦がずっと自分の中にあったのを再確認したような感覚があった。ずっと消えていなかったその渦と再び向き合えた瞬間だったように思う。

にじいろの話を聞いて、何故だか分からないけれど絵本作家になりたいと思った。
絵本作家になれたら、保育園や乳児院で働けなくても、子ども達を見守り、寄り添い、支える存在になれるかもしれない。保育士としてよりも、もっとたくさんの子ども達と関わることができるかもしれない。そんな風に思えた。

悲しくて辛い背景を抱えている子ども達と出会って、あの時は逃げてしまった。だけどあの時、絵本を読んでいる時、その時間は確かにあの子にとって“嬉しい時間“だったはず。
あの子だけではなく、絵本は楽しかったり面白かったりほっとしたり、子ども達にとって時には友達であったり、時には先生であったり、いつもそばにいて安心できる存在なのだと、私がありたいと願う存在なのだと、気づいたのだ。

出来ることなら、世界中の全ての子ども達に起こる悲しいことや辛いことを取り除いてあげたい。だけどそれは悲しいけれど、不可能だとも
分かっている。それならば、今度こそ私は私にできることを全力でしたい。絵本を読む時間だけは安心できる時間であって欲しいと願いたい。そう願いをこめることなら、今の私に出来る、あの時の子ども達との向き合い方なのではないかと思った。

絵本の内容でも、キャラクターでも、ささいなセリフの一言や表紙の色でもいい。
子ども達それぞれの“なんかスキ“と思える一部分になりたい。そんな絵本をつくって、届けたい。

誰かのスキが入っているのが“にじいろ”なのだと娘から教えてもらった。だから私は“にじいろ“な絵本作家になりたい。それが今の私の夢。

そして、今になって気づいたことがもう一つある。それは乳児院にいた子ども達、主に虐待を受けていた子ども達の背景にいる保護者や、あの日怒声を放っていた男性に対しての私のおもい。

大前提として、理解できるわけもなく、したくもないと思っている。

だけど、
私も二人の親となり、周りの友人達も親となった今だからこそ、理解はできなくとも、あの時は分からなかった保護者側の気持ちにも、今ならほんの少しだけ寄り添うことができる。

紙一重なのだ。
社会と隔離された子育てや、何をしても泣きやまなくて鳴り響く子どもの声、寝不足や経済的な面から募っていくイライラ、トイレさえも自分だけの時間ではなくなってしまうこともあるし、時間はあるのに自分のやりたいことは一切出来ない辛さ、99頑張っていたとしても1頑張れていなかったら責められてしまう理不尽さ。

そんな時、誰も助けてくれなかったら。

私は夫と二人で育児をすることが出来ていて、両親も近くに住んでいて、相談出来る友人がいて、息抜き出来る時間があった。それはとてつもなく恵まれていたのだ。

そんな存在が、誰一人いなかったら。

子ども達だけではなく、保護者や保育士など大人側も救うべき対象にある場合もあるのだと今は感じている。

だから私は絵本を通して、子ども達だけでなく保護者や保育士にも寄り添えるような“にじいろな絵本作家“になりたい。
子ども達は、無条件に愛される存在であるべきだし、そんな子ども達を守るべき大人達もまた、誰かが寄り添い助け合わなければいけない。全ての人の“誰か“にはなれなくてと、誰かの“誰か“に、私はなりたいのだ。

世界中の子ども達の、安心できる存在になりたい。世界中の子ども達の、友達のような存在になりたい。

そのために、今は絵本テキストを書き上げては公募に応募を続けている。難しいけれど、今度こそ逃げずに挑戦し続けていきたい。

あの時のあの子達のために、あの時の情けない自分のために、今の自分に出来る向き合い方をようやくみつけたのだから。

私の夢は“にじいろな絵本作家“になること。
絶対、なる!!!

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