【受賞作発表】ひらづみ短編小説コンテスト ~お題「ぶつかりおじさん」~
※当初は最優秀賞を1作、選出予定でしたが、素晴らしい作品が多く絞り込むことが難しかったため、急きょ「優秀賞」を設け、2作を選出させていただく運びになりましたことをご了承ください
【優秀賞】ぶつかりおじさん石井のぶつかり道(やまだのぼる)
氷河期世代の一人として辛酸を舐め続けてきた石井卓は、今では立派なぶつかりおじさんだ。
今日も、通勤客で混み合う朝のターミナル駅に姿を現す。
気が強い女は面倒だ。狙いは文句を言ってこなそうな女。
今日の獲物を物色する石井の隣を、小柄な女性が通り過ぎていく。
このアマ。俺を一瞥もせずに、通り過ぎていきやがったな。
それは、社会から疎外され続けた人間の抱く理不尽な怒りだった。もっと大きな何かにそれをぶつけることができていれば、石井もぶつかりおじさんになることなどなかっただろうに。
とにかく、石井は怒った。
そして、その女性をターゲットに決めた。
足早に女性の背後から近づく。女性は気づいていない。
くらえ。
肩から思いきりぶつかろうとしたとき。
石井は突然後ろから、思い切り襟首を引っ張られた。
「ぐえ」
蛙が潰れたような声を上げて振り返ると、白髪の老人が満面の笑みを浮かべて立っていた。
「何だ、じじい」
「おぬし、ぶつかりおじさんじゃろ?」
「なっ……」
確かに石井はぶつかりおじさんだが、面と向かって訊かれると「そうだ」とは言いづらい。
「何言ってんだ、てめえ」
苦し紛れの威嚇は、老人には通じなかった。
「そのぶつかり、カネになるぞ」
老人はそう言うと、一枚のチラシを石井に差し出す。
「は?」
思わず受け取ってしまう。見ると、チラシには派手な文字で『猛者よ、集え! ぶつかりおじさん世界大会開催』と書かれていた。ブッツとカリーという可愛い謎生物がお互いに笑顔で体をぶつけ合うイラストも入っている。
「何だ、こりゃ」
「優勝賞金、百万ドル」
老人は言った。
「やらんか?」
「ふざけんな」
石井はチラシを放り捨てると、肩を怒らせて老人につっかかった。
「そんな大会、あるわけねえだろ」
思い切り吹っ飛ばしてやるつもりだった。だが、やせっぽちの老人の体は、岩のようにびくともしなかった。
「ぐえっ」
逆に跳ね飛ばされて、石井は惨めに尻もちをつく。
「その程度か、おぬしのぶつかりは」
老人は拾い上げたチラシを、石井の手に無理やり握らせた。
「裏に、儂のぶつかり道場の案内がある。単なる迷惑野郎で一生を終えたくなくば、門を叩くがいい」
そう言うと、老人は悠然と歩き去った。
呆然とそれを見送る石井。
「ぶつかり道場……? 何だよ、それ」
五反田のぶつかり道場には、すでに兄弟子が何人もいた。
石井が顔を知るぶつかりおじさんもいた。
あっ、あいつは“品川のハンチング帽”じゃねえか。あっちにいるのは“新宿の軍パン”だ。“錦糸町のごま塩頭”まで。最近見ねえと思ったら、こんなところにいたのかよ。
「来ると思っていたぞ」
道場主の老人は石井を見るなり言った。
「だが、ぶつかり道は険しいぞ。心せよ」
その日から、石井の地獄のような特訓の日々が始まった。
「自分よりも弱い者を狙うなど、ぶつかりおじさんの風上にも置けぬ。まず、おぬしがぶつかるべきは自分自身の弱い心じゃ」
足腰が立たなくなるまで走り、箸も持ち上げられなくなるまで筋肉を苛め抜く。
「苦しいか。その苦しさは、おぬしらが今まで理屈をこねて逃げ続けてきた人生の苦しみじゃ。ぶつかれ。ぶつかって、新しい扉を開け」
あまりに過酷な訓練に、集まったおじさんたちは次々に脱落していった。
しかし石井は必死に食らいつき、生き残った。
自分が本当にぶつかるべきものの姿が、おぼろげながらに見えてきた気がした。
「世界大会のメンバーを発表する」
老人の読み上げた、五人の日本代表ぶつかりおじさん。石井は見事、その大将に選ばれたのだった。
ドバイで行われた世界大会は、熾烈を極めた。
銃社会アメリカのぶつかりおじさんには、たとえ撃たれても構わないという覚悟を感じたし、何億もの人口を擁する中国やインドのぶつかりおじさんたちの耐久力は常軌を逸していた。
それでも、石井たちは勝ち進んだ。
日本のぶつかり道は、竹だ。しなやかに、軽やかに。だが決して折れない。
しかし、モンゴルとの決勝戦まで進んだときには、石井は満身創痍となっていた。
二勝二敗で迎えた大将戦。激しくぶつかり合った石井は、ついに自らの肩の骨が砕け散る音を聞いた。
「見事だった」
担架に乗せられ起き上がることのできない石井に、老人は言った。
「いいぶつかりだったが、勝ちきれなかったな」
それは、石井にも分かっていた。賞金も手に入らなかった。
老人は石井の肩を見て辛そうに首を振る。
「石井。おぬしの肩は、もはや」
「いいんだよ、師匠」
石井は言った。
「俺のぶつかりには、もう肩は要らねえ」
「見えているのか、次の相手が」
「ああ」
決して諦めることを知らない、日本のぶつかりおじさん石井は、口元に笑みを浮かべる。
「俺が次にぶつかる相手は、時代だよ」
【優秀賞】流行性疾患(水の森 一)
(あ、来る)と私は確信した。
駅構内は朝の通勤時間帯で混雑していたけれど、その人込みを縫うようにして、磯野浪平の頭部とノリスケの胴体を合体させたような中年おやじが、右斜め前からこちらに突進してくるのが見えたのだ。
今の季節はぶつかりおじさんが大量発生しているので、本当に気が抜けない。
先日合気道を習っている友人から、身体全体で相手を受け流すコツを教えてもらったので、それを試す時だ。
まず相手を直接見てはいけない。見ると相手も身構えるからだ。私は何も気づいていませんよ、というテイで身体の軸となる体幹を意識しながら、肩の力を抜いて相手が来るタイミングを見計らった。
今まさにぶつかろうかというその刹那「きゃっ!」という小さい叫び声とともに、ブレザー姿のひとりの女子高生が、左から私の足元に倒れ込んできた。反射的に女子高生に視線が行く。その女子高生の横を足早に去ってゆく男が、左目の端にチラッと見えた。こっちもぶつかりおじさんかと思った瞬間、右肩に衝撃がきた。
しまったと思った時には後の祭りで、女子高生の隣に私も横転してしまった。
「あー、もう」
頭を上げると、私の前をノリスケの横っ腹が何事もなかったかのように通り過ぎて行くのが見えた。
転んだときに左ひざが地面に擦れて血が薄くにじみ、ストッキングは伝線していた。ひざの方は大したことはないけれど、伝線はショックだ。おろしたての新品だったのだ。自腹でまた買うのもしゃくに障るので、自社の保険を使って買ってしまおうと決めた。
春の花粉の季節になると、ぶつかりおじさんが急増するのは誰もが知るところだ。XだかYだかの染色体を持っている者に花粉がどうのこうのして、無性にぶつかりたくなるおじさんが増えるらしいけれど、詳しいことは知らない。
症状が軽いうちは弱そうな女性を選んでぶつかりに行くが、重くなると対象が屈強な男性に代わり、やがて走行中の自動車やトラックへと移行する。その時点で運よく命があったとしても、遮断機が下りている踏切に入り、真正面から電車に猛進していくのが最終形態だ。もちろん身体はバラバラになる。
毎年春になると男性の悲惨な死亡事故が急増することから、政府もぶつかりおじさん対策をはじめた。症状を軽くする新薬開発への補助金と、健康保険による手厚い治療だ。民間の保険会社も、健康保険にはない各種手当を充実させた保険を発売している。
保険の外交員をしている私としては、ぶつかりおじさん保険の契約申し込みが殺到するこの時期が、一年で最も稼げるので頑張らなければいけないのだ。歩合で沢山稼げば、今朝の事など大したことじゃないと思えるだろう。
とりあえず会社に急ごうと、私は左ひざをさすりながら立ち上がった。
オフィスの窓からどんよりと曇った空を眺めながら、私は無性に卵が欲しくなっている自分に気づいた。
もうすぐ梅雨の季節だ。最近は花粉も飛んでいないので、ぶつかりおじさんを見かける事はほとんどない。仕事の忙しさも一段落しているので、久しぶりに定時で上がることにした。
会社帰りにいつものスーパーに寄ってみると、卵はすべて売り切れになっていた。去年もこんな状態だったのだろうか。よく覚えていない。どこに行けば買えるだろう。駅から少し離れた店ならまだ売っているだろうか。まずは行ってみるしかない。
朝の混雑した駅構内の通路の端に立って、私は人の流れを見渡した。
昨夜は三件目に寄ったスーパーで、ひとつだけ売れ残っていた十個入りの卵パックをどうにか買うことができた。その卵パックは今、肩にかけたトートバックの中にある。
手ごろな獲物を探していると、十メートルほど先に見覚えのある顔を見つけた。
(あいつっ!)
人の流れに身をまかせるようにして、たゆたいながらこちらの方に歩いてくる。
標的が決まった。私はゆっくりとそいつに近づいて行った。
梅雨の時期にあまた出現する卵投げおばさんに、今年ついに私も仲間入りしてしまった。それにしても、おばさんというネーミングはどうにかならないだろうか。おねえさんとかお嬢さんに、今からでも変えてほしい。
人に無性に卵をぶつけたくなるというこれは、湿度が高い梅雨の時期に増殖する何とかいうカビの胞子が、女性ホルモンになんちゃらして攻撃性を増大させるという話だけれど、それがどうした。
標的との距離が一メートルちょっとに縮まったところで、私はバックの中の卵をひとつ、しっかりと掴んだ。相手もようやく私の存在に気づいたようだ。顔全体に怯えの表情が広がるのが分かった。でももう遅い。この距離ならまず外すことはないだろう。磯野浪平の頭部とノリスケの胴体を合体させたような中年おやじの顔をめがけて、私は右腕を大きく振りかぶった。
【佳作】災害の名前(板東芙美花)
わたしが初めて「ぶつかりおじさん」に会ったのは、四谷四丁目にある駐日韓国文化院の建物の前だった。「会った」というか「遭った」だった。わたしは「ぶつかりおじさん」を、個人ではなく事故や災害の一種だと認識している。たとえ顔が違っても彼らがやることは同じだし、ふつうのおじさんに一定の確率で混じっているハズレくじみたいなものだから。残念ながらわたしたちに善良なおじさんと「ぶつかりおじさん」とを見分ける術はなく、そうとわかるのは台風一過、おじさんが歩き去った後のことだ。
わたしが韓国文化院の前を歩いていたとき、前方に見えた「おじさん」も、当たり前に横を通り過ぎていくものだと思っていた。わたしは真っ白いイヤホンで好きな曲を聴きながら、今日の晩ごはんとか、明日の講義のことを考えていた。そこにいたおじさんのことなんてぜんぜん頭の中に入ってこなかった。
おじさんとすれ違う瞬間、彼はありえない方向に曲がった。わたしのほうにいきなり体を向け、そのまま突き進む。一瞬、何が起きたのか分からなかった。わたしのうしろには韓国文化院の入り口を守るポールと、その間を繋ぐチェーンしかないのだから。
ぶつかられたとき、ドン、と音がしたが、それだけだった。わたしは倒れもせず、ただ少し姿勢を崩した。女性の割に身長が高く、それなりに骨組みのしっかりしたわたしは、おじさんの体重と歩行速度の運動エネルギー程度ではどうにもならない。そのときまで「ぶつかりおじさん」に遭ったことがなく、わけがわからなかったので、「はぁ?」と声が出た。思ったより大きな音で。
おじさんは小声で「すみません」と言って、足早に去った。首を捻りながら歩き出したところで、そのころSNSで話題になりだしていた「ぶつかりおじさん」を思い出した。ああ、あれが。自分より弱い女子供にぶつかって鬱憤を晴らすと聞いていたけれど、あのおじさんは何を思ってわたしにぶつかってきたのだろう。そのときはかわいいコートを着ていたから、弱そうに見えたのだろうか。
そう思うと遅まきながら腹が立ったが、小声で「すみません」と呟いたおじさんを思い出すと悲しくなってきた。あのおじさんより強いおじさんがいつもあのおじさんに「すみません」と言わせるのだろうか。もしもあのおじさんより強い人が若かったら、女性だったら、「ぶつかりおじさん」はわたしにはぶつかれなかっただろうから。強いものには条件反射のような速度で謝れるかわいそうな生き物。
ブルーハーツの歌詞に「弱いものたちが夕暮れ さらに弱いものを叩く」とあった。人が公の役割から降り、互いに名前も知らない誰かとしてうすく他人と関わる時間。あの「ぶつかりおじさん」の名前はなんていうんだろう。わたしはあの人について覚えていることは、ぶつかってきた勢いと、小声で投げられた謝罪の言葉だけ。台風にだって名前があるのに、わたしはあのときの災害の名前を知らない。
「ぶつかりおじさん」について調べてみると、どうやら傷害罪で警察に捕まえてもらうことができるらしい。次に遭ったら、なんとかしてその場で通報しようと思う。丈夫なわたしではなく、妊婦や子どもにぶつかり出す前に。
そして、暗い交番のすみでうなだれるおじさんに聞いてみるのだ。あなたの名前はなんですか。あなたがまだ名前を持っていた時間に、あなたをそんなにしてしまった人の名前はなんですか。
【佳作】愛されたくて、僕は。(南﨑理沙)
ネイルは薄いピンク。髪は黒髪のウィッグ。一緒に住んでいる父が仕事のあいだ、僕は学校をさぼって女の子の格好をして街に繰り出す。父とはほとんど会話はしないから、父は僕が学校をさぼっていることも、クローゼットの奥にスカートやらワンピースやらを詰め込んでいることも知らないだろう。ヒールを履いて歩くと、すらりと伸びた白い足、もしかしたら女の子よりも細い足にサラリーマンの目線が絡みつくのを感じる。その視線が、僕は好きだ。僕という存在に惹きつけられて、僕のせいで阿保になって、僕のせいでその視線を新聞というちゃんとしたものから外して僕を見るしかなくなっているその姿を見ると、胸が高鳴る。今日も、高野駅で僕は行ったり来たりする。駅の端っこに寝転がっているホームレスだけが、僕が実は何の目的もなく歩いていることを知っているようだ。夕方になると、ときどき疲れ果てたサラリーマンが平べったい目で僕を口説いてくる。僕は声を出せば男の子だと知られてしまうから、声は出さずにお高くとまった女の子のふりをして、微笑んでは立ち去る。僕も、女の子だったら。女の子だったら、父も僕にもう少し時間を割いてくれたのだろうか。僕が女の子だったら、父はもっと僕と話してくれたのだろうか。父との思い出はほとんどないけれど、夜中にキッチンでこそこそと話していた父と、他に男の人ができた母の会話を僕は覚えている。あの子が女の子だったら僕が育ててもいいけど、男だろ。君が育てていいよ。結局僕は母からも父からも煙たがられて、父と一緒に住んでいる。僕が女の子だったら、という思いはあの日からずっと根づいて離れてはくれない。僕が男だから、僕は愛されなかったんだ。ウィッグに丁寧に刺した金色のピンを左手で撫でつけながら、僕はひたすら歩く。歩けば、何かが解決するかもしれない。コーヒー店の前と、パン屋の前を十往復はした。足が疲れてくるけれど、ヒールによる痛みは、女の子の痛みだ。僕は女の子の痛みも、ほんの少しなら、知っている。前から来る人々は、僕を目の端で捉えて器用に避けていく。僕の身体はどこまでも僕に纏わりつく。こんなに人がいるのに、誰か、僕を愛してよ。僕を見たなら、僕を捨てないで。僕は、どこかに行きたくて、でもどこにも行けなくて、どこにいってもどうしようもない気がして、たまらないんだ。僕は綺麗だ。爪の先から睫毛の先まで、完璧に仕上げているんだ。だから、、そのときだった。僕の胸に、ガン、という衝撃が走った。その衝撃は頭に届くまでに時間がかかり、痛みだとすぐには気づけなかった。痛みであると認識すると同時に、か弱い女性にぶつかったつもりの男の顔を捉えた。そこにあったのは、父の殺気に溢れた顔だった。知らない父が、目の前にいた。いつも家のなかで、僕に興味をもたないながらも穏やかに過ごしていた父が、今では全てを暴力に託しそうな表情をしている。目の奥に、暗い光が見える。僕のことを見ていない。僕の身体を通して、女の子の身体を通して、遥か彼方を見ている。この男はいったい、誰だ。いったい何に苦しんでいて、いったいなにに怒っているんだ。父は、僕に気づかなかった。女の子になったのに、僕のことを使い捨てのサンドバックのように痛めつけては、足早に去って行った。あれは、いったい、何だったんだ。
その場で固まっていると、若い背の高い男が、お姉さん災難だったね、と声をかけてきた。僕はもちろん声は出せない。痛い、とも言うことができない。僕もまた、その場を足早に去って、コインロッカーから制服と化粧落としを取り出すと多目的トイレに入った。鍵をかける。鏡のなかには、さっきの父と同じ目をした自分がいる。
部屋の灯りはすでに灯っていた。父が帰ってきているのだ。僕は何食わぬ顔で家のなかに入ると、レトルトカレーをレンジで温めた。スマホゲームを熱心にしている父の目を盗み見る。僕たちはお互いのことなど、なにも知らないみたいだ。
カレー、父さんも食べる?いや、食べてきたからいい。久しぶりの会話はそこで終わり、また沈黙が続く。僕もいずれ、父のように言葉を失ってしまうのかもしれない。僕もいつか、すべての解決できない黒い塊を、暴力や痛みで解決するのかもしれない。チン、とレンジから音が鳴る。僕はひとりぶんのカレーを米にかけると、それをもって父の前に座った。何を言えばここから抜け出せるのかわからない。僕らはきっとどこか、すぐには言葉の届かないところでこんがらがってしまっている。なあ、父さん。ん?目が合う。父の目は、いつもの父の目をしていた。
【佳作】ブツカリオジサンの生態(炉炉)
季節は冬。ここは、東京の端っこにある、とある森の奥。木々をすり抜け進んでいくと、そこにはブツカリオジサンがいました。
日本全国に分布するブツカリオジサンですが、東京に生息する種は、好戦的で獰猛な個体が多くみられる傾向にあります。おっと、さっそく二匹のブツカリオジサンが睨み合っていますね。その様子を、ブツカリオバサンが離れた位置から見守っています。どうやら、雌をかけた争いが始まるようです。
ブツカリオジサンは、お互いの肩をぶつけ合って争います。これはどちらかが動けなくなるまで繰り返され、途中で命を落としてしまう個体もいます。
さぁ、オス同士が激しくぶつかり合っています! このとき、肉体がぶつかるときに鳴る重々しい音と、「ウ゛ッ」という呻き声を出すのが特徴的です。ブツカリオバサンも心配そうな表情を浮かべ、見守っています。
ぶつかり合う速度は皆さんが思っているよりもゆっくりで、人間が歩くスピードとほぼ同じだと言われています。肩が触れ合う瞬間に前方に力強く振ることによって、威力を出すのです。一度で決着がつくことは、ほとんどありません。何度も、何度も。片方が限界を迎えるまで、肩をぶつけ合います。
お、どうやら決着がついたみたいですよ。勝利したのは、赤いネクタイを首に巻いた、バーコード頭の雄のようです。広い額に汗を滲ませて、息を荒くしています。そこに駆け寄るのは見守っていたブツカリオバサン。目に薄っすらと涙を浮かべ、ブツカリオジサンの胸に飛び込みます。
勝利した雄は、拳を天に向かって高々と掲げるポーズをとります。これは、ブツカリオジサンの勝利宣言であり、自身の強さを周囲にアピールする行動であると言われています。
成体になったブツカリオジサンは、夏になると都心へと移動します。しかし、ブツカリオジサンは環境適応能力が高い訳ではありません。むしろ低い部類とってもいいでしょう。
ですから、自分たちの住んでいた場所と似た環境を見つけて、そこに住み着きます。ブツカリオジサンは地下に複雑で広大な巣穴を形成し、そこで雌と共に暮らしています。東京の街でそれと酷似しているのが、入り組んだ駅構内です。とりわけ、地下鉄の駅を好む傾向があると言われています。
成体の見た目はほとんど人間と変わらないので、普通の人にはまず見わけがつかないでしょう。ですが、最近は認知度が上がって来た影響もあってか、SNSに動画がアップロードされているのをよく見かけます。
ブツカリオジサンにとっては、肩をぶつけることは本能であり、仲間同士では軽く肩をぶつけ合うことでコミュニケーションをとっています。というか、ブツカリオジサンは肩をぶつける以外のコミュニケーション手段を持ち合わせていません。
ですので、悲しいことに東京では嫌われてしまっているようです。ブツカリオジサンからすれば、挨拶しているつもりだったり、独身の雄の場合は好みの雌にアピールするために肩をぶつけている場合もあります。ですが、人間側からしてみれば迷惑でしかないのです。
結果、警察に通報されてしまったり、SNSに動画を曝され炎上したり、攻撃的な人間から反撃されてしまうこともしばしば。ブツカリオジサンが持つ攻撃手段もまた、肩をぶつける以外ない為、それ以外の攻撃に対する対応は全くできません。よって、背を向けてその場から逃げるほかないのです。
夏が終わりに近づくと、ブツカリオジサンは家族の待つ巣へと帰ります。一夫一婦制であるブツカリオジサンは、結ばれた番と一生を添い遂げる、非常に愛情深い生き物です。平均寿命は十年ほどで、その間に平均して百匹の子を産みます。しかし、激しい生存競争に揉まれて、成体になれるのは十匹もいません。
どうでしょうか。ブツカリオジサンについて、少しは理解が深まったでしょうか。ブツカリオジサンは、日本原産の大変珍しく、貴重な生物です。ですが、研究する人が少なく、詳しい生態は未だ謎に包まれています。
人目につかない山奥に営巣し、夏になると私たちの肩にぶつかってくるブツカリオジサン。
冬の山で、肉体のぶつかり合う音と低い唸り声が聞こえたら。
それはきっと。近くにブツカリオジサンがいる証拠です。
汗を流しながら肩をぶつけ合うブツカリオジサンを写真に収めて、ぜひ友達に自慢してみてください。
今日のところは、ここまで。
次回は、『二ホンナガラスマホ』についてご紹介します。
それではまた。
【佳作】覆われた素朴(跡部佐知)
三千円分の切符を買った。
ターミナル駅のホームから見上げた師走の空は、東北では珍しい快晴だった。
大学に入学して一人暮らしを始めるときに通ってきた路線を折り返す。夏休みは実習で帰省できなかったから、家族に会うのは実に九ヶ月振り。どんな顔をして会えばいいのだろうかと、車窓を流れる景色を見て思う。
車窓の先は、春先よりもくすぶって見えた。
私は黒のフレアパンツに、黒のダウンを羽織っていた。インナーのアイボリーのニットが暖かかった。
親に内緒で赤茶色に染め、胸下まで伸びた私の髪は、電車と一緒に揺れていた。三時間くらい経って、馴染みのある駅名が耳たぶを揺らした。懐かしい景色を歩いた。
実家のインターホンを押した。インターホンを押すと、何を喋ればいいのかわからなくなる。
そのまま突っ立っていると、はーいと母親の声がして、忘れていた音を思い出した。
メイクを覚え、赤茶色に染まった髪をおろした私を見て母は目を丸くしていた。
「あんた、大人びたね。でも色気づいてんじゃないのよ。勉強が大事なんだから。早く入り」
想像よりあっけらかんと迎え入れてくれた母にはにかみながら、つまらなそうに玄関をくぐった。
自室だった場所は、妹の部屋になっていて、私が実家に置いて行ったものたちが隅のほうへ追いやられていた。
「お姉ちゃん久しぶり。なんか別人みたいだね」
「久しぶり。私はそんな気しないけど」
「顔つき変わった気がする」
妹は微笑を浮かべていた。
「それって悪口?」
受験期の妹はすぐヘッドフォンをして机に向かった。
妹の部屋に荷物を置いたあと、リビングで母としばらく話をした。大学生活のこと、アルバイトのこと。会わない間に積もり積もった話したいことが、ミルフィーユみたいにかさばっていた。ときどき連絡は取っていたから近況は知っているはずなのに、直接会ってする会話には温度が感じられた。
「なんだか都会の女の子って感じになったね」
「そんなに?」
「うん。髪の色も明るいし、服装も流行りのアイドルみたい」
私の大学は地方の政令指定都市にある国立大学だ。人口が十万人を切るような地元ほど閑散としてはいないが、それでも東京に比べたら田舎に感じられる。
「ここに住んでたときの私って、どんな風だった?」
そうねえ、と思慮していた。
「素朴だったかも。化粧もこなれてなかったし」
今の私は、家族にどう思われているのだろう。
いつから、素朴でなくなってしまったのだろう。
「素朴でいるのって疲れる」
「疲れる?」
「うん。一人で暮らすようになって、ご飯も掃除もお洗濯も、お金の管理だって自分一人でやらなきゃいけないし、素朴のままでいる余裕はないな」
「わかるよ。一人暮らしって大変よね。あんたも大人になってきてる証拠よ」
その日の晩はすき焼きだった。一人では手が届かないような高い牛肉を買ってきてくれた。卵も赤茶色のいいやつだった。
そういえば、一人暮らしをしてから初めて牛肉を食べた。豚とも鳥とも違う繊維の肉質で、ほっぺがとろけ落ちそうだった。
年を越したあと、することもない実家に窮屈を覚え始め、予定よりずっと早くアパートに戻ることにした。
「もう帰るの?」
「年明け、学校あるから」
三が日を過ぎたころ私は電車に乗った。
入試のときとも、スーツケースを抱えて旅立ったときとも違う景色がホームから見えた。
勝手に感慨深くなった。
駅のホームから、私を送ってくれた車が徐行していく。そのまま、車が去っていくのをぼーっと見ていた。来たときよりも重くなった荷物には冬着やお餅、炊き込みご飯が入っていた。
一両編成の同じホームに、スカートを履いた背の低い華奢な女の子がいた。その子は大きな荷物を背負って本を読んでいた。きっと一人暮らし先に戻るのだろう。
年明けの午前中のホーム。心なしか晴れ晴れとした表情の人が多かった。
突然、本を読んでいる女の子におじさんが肩をぶつけて、女の子は文庫本を落とした。
おじさんは切羽詰まった様子で駅の階段を駆け上がっていき見えなくなった。
女の子は本を拾って、何事もなかったように続きを読み始めた。
たしか、私も。
一人で暮らす前の私の見た目も素朴だった。髪も服も素朴だった。けれど、人から舐められないために、自然とメイクも服も艶めき出した。
華奢に見える女の子は、派手に見える女の子よりずっと強い。
自分の着たい服を着て、周りに億せず堂々と生きていけるあの子の内面にある靭やかな強さや図太さが私にはわかる。
私が一人で暮らしていくためには、華奢なおしゃれよりも舐められないためのたおやかなおしゃれが必要だった。
内面が素朴な私を覆うように、心の中でさよならを言って列車に乗った。
【佳作】チアーズ!(桜井かな)
お婆さん、本当にすみません。どうか警察は勘弁してもらえないでしょうか。
反省はしています。この通り髪の毛が全部抜けちゃうくらい。って、これは元からか。あはは。全然、笑っちゃってください。困り顔が一番傷つくんで、ハイ。
断じて痴漢ではないです。そもそも、お婆さんも紛らわしかったというか。わあっ! ごめんなさいごめんなさい。杖で殴ってこないでください。
お婆さん、歩き食べしてたでしょ。ここが中華街だから、というのは理由になりません。この世には歩き食べする人、しない人、二種類の人間がいます。
その御座候(ござそうろう)おいしそうですね。どこで買ったんですか? あら、そこの裏路地で売ってるんですか。後で買って帰ろう。
かくいう私も歩き食べ派です。なのでマナーを責めるつもりはありません。歩きながら食べると時間短縮できて合理的だと思います。けれど、そのせいで大変な一生になってしまったのです。歩き食べしている人を見ると、ぶつからずにはいられないのです。
ううっ、ぐすっ、私だってこんなことしたくありません。人にぶつかったあと、相手からタコ殴りにあったことも、通報されたことも、川に突き落とされたこともあります。
私の姿を見てどう思います? 頭頂部は見事に禿げあがり、お腹のぜい肉はぶよぶよで、顔は脂で下品な光り方をしてるでしょう。目を背けたくなるほどのオッサンでしょう。
自棄になっているわけではなく、事実を口にしただけです。私はあえてこの体をむごたらしく改造しているのですから。えっ、その御座候くれるんですか。優しいですね、ありがとうございます。
こんなに親切な人に迷惑をかけて申し訳ないです。お婆さんになら事情を話してもいいかもしれません。
三十年前、私は高校生でした。ただの高校生ではありません。花も恥じらうほどの美少女でした。強調したいのが、美少年ではなく、美少女だったことです。文武両道、品行方正で、生徒会長もやっていました。
でも、私には一つ弱点がありました。朝がとにかく弱かったのです。毎朝ダッシュをして、始業ぎりぎりで校門に駆け込んでいました。家でゆっくりご飯を食べる余裕はなく、トーストを口に加え、走りながら食べていました。
そして、ある朝、住宅地の角で他校の男子高生とぶつかってしまったのです。あまりの衝撃に、私は脳震盪を起こして意識を飛ばしました。相手もパンを加えていたのと、背丈が同じだったこと、地味な容貌をしていたことは覚えています。
目が覚めると、私は病室にいました。側には誰もおらず、ちょうど催してきたので一人で女子トイレに行きました。そして、鏡を覗くと「ギャー!」と叫んでしまいました。そこには、美少女ではなく、件の男子高生の顔が映っていたのです。
ラブコメでよくあるでしょう。道の角でぶつかった男女の体が入れ替わり、なんやかんやで恋に落ちる物語が。それがわが身にも起きました。
ラブコメと違ったのが、相手がバックレてしまったことです。私と仲良くなるより、私として生きていく方が得だと判断したのでしょう。
私は元の体を探しました。放っておいても目立つ容姿です。居場所は自然と耳に入ってくると思いましたが、相手は町を出たようで、見つけられませんでした。
以来、私は同年代の、自分に似た女性が現れると、ぶつかっていました。それを三十年も続けていると、相手の顔を見ていちいち判断するのが億劫になり、とにかく歩き食べしている女性に突進するようになりました。習慣というものはいつまでも残りますから、歩き食べは続けているんじゃないかと。
はい。お婆さんの仰る通り、けが人を出さなかったのは不幸中の幸いでした。お年を召した方に、私は何てことをしてしまったんでしょう。
正直、今まで私は復讐に生きてきました。相手は私の体で素敵な人生を歩んでいるだろうし、この肉体はめちゃくちゃにして返そうと決めたのです。パンパンに太らせて、酒や煙草で内臓も悪くし、健康診断では十項目以上引っかかっています。
苦労しているのは私だけじゃないですって? なんと、お婆さんはバツ六で、お友達相手に名誉棄損の裁判中なんですか。子供の半分以上は刑務所に!
お婆さんもなかなか壮絶な人生を歩んでいるんですね。自分一人じゃないんだと、少し心が楽になりました。
あの、さっきから気になっていたのですが。この額の縫い痕、私の額にあるのと全く同じ形ですね。御座候という言葉が通じた時から、少し引っかかっていたのです。大半の地域では、今川焼と呼びますから。
私と入れ替わったのはあなた、だったのですね。いえ、もう体は返してもらわなくて結構です。お互い困難な人生だったようで、なんだか肩の力が抜けました。とりあえず自販機の甘酒で、再会を祝して乾杯でもしましょうか。