【エッセイ】せっかくだからもう一周
その日の天気のように私は浮かれていた。
姉にねだって借りたスキニーデニム。御幸町通りの古着屋で買ったコットンの白いワンピース。そして入ったばかりのバイト代で買ったウッドソールのサボ。
コテと格闘して作った緩いウェーブが無事に県境を跨ぎ、彼の目に入りますようにと願いを込めて春風の中を闊歩し駅に向かう。
造幣局の川沿いで、小さな路地裏の公園で、古い平家の民家の庭で。環状線の車窓からは様々な場所で桜が咲いているのが見えた。
それは淡く澱みのない美しいピンクで、私は若くてとても単純で、それだけでただ嬉しかった。
しかしデートは散々だった。
大阪は有名な場所しか知らないと言った彼に、精一杯プレゼンしようと思って考えたプランは欠陥だらけだった。
行きたかった中崎町のカフェはたまたまその日は臨時休業。ならばと選んだ違うカフェはやはり人気で並ばざるを得ず。目的の古着屋はリサーチが甘く、すぐ着くはずなのに何度も界隈を歩き回ってしまった。その間に小雨に降られ、髪のカールはおろか、前髪は湿気でおでこに張り付いてしまった。
そしてこれは自分に責任が有るのは間違い無いのだけれど、左足の踵が痛い。痛い。痛い。
元凶はもちろん、おろしたての新しいウッドソールサボ。
彼の方は、雨で濡れてもちっとも変わらずにかっこよくてお洒落だった。真っ白なオックスフォードシャツも、細くて黒いスリムデニムも、アルフレッドバニスターのシューズも、右耳に付けたシルバーのピアスも、それが似合う少し尖った耳の形も、何もかも。
その頃の私は、お洒落な彼にどうしてもお洒落した自分を見せたかった。
そして2人で彼がまだ知らない大阪の街を歩きたかった。
スカイビルで夕方から始まる映画を観るのもプランの一つで、その日の残されたイベントだった。少し歩くけれど間に合う時間だった。
それなのに悲鳴を上げきっていた私の踵がどうしても行きたくないと駄々をこねている。
私は今朝掲げた理想との乖離にもうほとほと疲れてしまった。
ああ、この恋はきっと上手くいかない。
「ごめんやけど、今日はそろそろ帰るわ」
全てが考えていた程上手くいかないと逃げたくなるのは若い頃の私の悪い癖で、それで取り逃した事も人も、沢山あったと今では思う。
「あ、じゃあ途中まで送るよ」
「ええよ」と言っても「いいよ」と返ってくるのが目に見えている。彼のそう言うところが好きだからだ。彼が下宿している街には阪急電車に乗らないと帰れないのに。
沢山の人が行き来するHEP前から高架下の横断歩道を渡り、人に当たらない様に、踝が痛いのに気付かれないように、JRの改札まで歩いた。
雨は止み、春の暖かい日差しがさす。行き交う人は皆んな楽しそうに見えるのが悲しかった。
ふと、急いで走り去った誰かの肩に当たり、私の手から紙袋がパサリと落ちた。
やっと辿り着いた古着屋で買ったカーディガンが入っていたショッパーだった。
「これ、かわいいの見つけられて良かったね」
彼はそのままそれを持ってJRの改札を通った。どこまでも優しくて、どこまでもかっこよかったのに、悲しいんだか嬉しいんだか、私は本当に可愛くない。
ホームに滑り込んだオレンジ色の電車に乗りこみ、すがる様な気持ちがバレない様に席に座った。
大阪駅で人が捌けたばかりの環状線外回りはがらんとしている。窓から差し込む光の明るさに、デートのお開きには早すぎる時間だと切なくなる。
京橋までたった3駅。痛い踝は回復しないだろうが、それでも隣に彼がいる間は笑っていよう。
「今日はなんかごめん。色々上手くいかんくて。」
「そんな事ないよ。」
「今度はちゃんと調べる。」
「お昼に食べたパスタ、美味しかったよ。」
今度があるかわからないけど、するりとそう言う言葉が出るのは、本当は往生際がわるいのか。
窓から覗く造幣局の桜は朝と同じ綺麗なピンク色をしていた。
徐々に猥雑さと哀愁が混ざる景観になり、京橋駅に着く。私はここで京阪電車に乗り換える。彼に別れを告げる。
「じゃあ、ここで降りるわ。」
その時。彼は紙袋を私に手渡そうとしたが、そうせず、その手で私の左腕を掴んだ。
「せっかくだからもう一周する?」
「せっかく?」
暖かい手だとワンピースの生地の上からでも分かった。突然のことなのに心はしっかりと嬉しいと叫んでいたら、その間に扉は閉まっていた。
電車はまた走り出す。すぐに速度を緩める。景色は変わり、オフィス街を挟み、大阪城ホールの緑の屋根。
「足、痛いんでしょ。ちょっと休もう。」
「ごめん、ほんまにごめん。」
「言ってくれたらいいのに。」
「...。」
大阪城公園駅で、高校生ぐらいの女の子が乗ってきた。乗るなり、トートバッグからアイドルの写真が大きくプリントされたうちわを出してはしゃいでいる。
「それ、かわいいもんね。今日買ったカーディガンにも合うと思う。」
私を懲らしめ続けたウッドソールのサボに視線を落として彼は言う。
ばれてたのか。恥ずかしくて顔中が熱を帯びた。
「うん、これ、履きたかってん。」
「うん、買ったなら履いてあげな可哀想や。」
「関西弁、自然なってきたね。」
あっという間に森ノ宮駅。
扉が開くと共に入ってくる春風が頬を冷やした。
「環状線の全部の駅に降りたことってある?」
扉の上にある路線図を見ながら彼は呟く。
「無いよそんなん。でもどんな街なんかは大体検討はつくかな。」
「教えてや。」
「そのイントネーションはちょっといただけへんな」
それから私達は約1時間弱、オレンジ色の電車に揺られて大阪を旅した。
鶴橋はホーム一体が焼肉屋の匂いだとか、通天閣にあるビリケンさんのお腹はみんなが触るから禿げてるとか、そういうありきたりの、特段新しくも無い情報を披露しては彼は笑った。
踝は相変わらず痛いままだったけれど、私もつられて笑った。
**
先日4歳の息子と電車に乗った。目的地に着き、「降りるよ」と言ってもなかなか席から立ちたがらない。
電車が好きな息子にとって、電車は手段ではなく目的なのである。窓の外に目をやりうっとりした顔で流れる景色を見続けている。
終点まであと3駅だった。時間に余裕もある。このまま乗ってまた引き返せばいいか。
なかなか気軽に外出出来ないご時世なので、無理矢理座席から剥がすよりも、楽しませてあげよう。
「お母さん、あの赤い丸はなに?」
座席上の路線図に環状線が書いてあった。
「環状線っていって、大阪をぐるっと一周回る電車。その路線図やな。」
「また戻るってこと?」
「うん、ずーっとぐるぐる回ってる。」
「?」
彼の顔に疑問符が浮かぶ。
いくら電車に乗ることが好きな彼でも、【どこか遠くに行く為に乗る物】と言う概念はしっかり持っているらしかった。
「誰も一周はしんのよ。みんな必要に応じて、ちょこっとだけ乗るんよ。」
言いながら、私はあの日を思い出した。
かっこよくて、よく笑う、たまらなく優しかった彼が私にくれたあの時間のことを。
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