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【創作訓練】つげ義春『退屈な部屋』ノベライズ
『物語の体操』第六講、つげ義春『退屈な部屋』ノベライズする。
課題は400字30枚の指定というのをうっかり忘れて、これは10枚ちょっと。今後加筆するかもしれずしないかもしれずといいつつpixivにアップしてから手付かず。
つげ義春『退屈な部屋』ノベライズ
自転車を引き出して、背中越し、散歩に行ってくると声をかけた。ボロアパートの二階から、妻の返事はない。部屋を出るとき、ちょうど窓辺で洗濯物をたたんでいたから、ぼくの声は聞こえたはずだ。構わず出掛けた。
空には入道雲が、もくもくとぼくを見下ろしている。
川辺りを行き、急行電車をやりすごしてから線路を渡る。両脇に夏草の生い茂る道を自転車で十分ほど。
その一軒家の壁沿いをブロックで囲った小さい庭には、見事なひまわりが三本、ぬっと立っている。家主がよく手入れをしているらしい。
その家の、昔の女郎部屋が貸し部屋となっている。四畳半の広さで、畳一畳分が一段高くなり、そこに布団を敷いて寝台としていたものだろう。
格子窓と丸窓が表に面して並んでいる。家具は、踏み台と兼用の小机だけだ。
畳敷きの寝台に腰掛け、まずは一服する。窓を開けて、猫の額ほどの庭の草花を眺め、飽きると畳に寝転がった。
ぼくはこの部屋を、妻に内緒で借りている。
女郎部屋という特殊な造りのせいか、借り手がつかないのだろう。家賃は安く、小遣いのなかでやりくりできる。礼金も敷金もなしだ。ぼくはむしろ、この秘密の穴蔵のような雰囲気が気に入ったのだが。
寝転がっているのにも飽きると、またタバコをふかし、庭を眺め、持ってきた雑誌をめくり、それを枕に床でゴロゴロする。放屁しても、誰にも咎められない。
少しうとうとしただろうか、大家の部屋のテレビから、お昼の体操の音楽が聞こえてきた。途中から起き出して、気まぐれに、声に合わせて腕を振る。
おいっちにい、さんしい、ごおろく……
「ごめんください」
あり得ない訪問のよびかけに、ドキンと心臓が跳ねた。返事をする間もなく、部屋のドアが開かれる。妻が、すました微笑み顔で戸口に立っていた。
「小川さん、おいででしょうか」
それは、ぼくがふざけ半分で部屋の前に掲げた表札の名だ。さあっと顔が白くなるのを感じた。返す言葉もなく寝台に腰を落とすと、妻はまだ他人行儀な、しかしイタズラそうな笑みを浮かべ、
「おじゃましてもよろしいでしょうか」
と続けた。
「どうして、ここが……」
「新聞屋さんが見たって言ったの」
いつもの調子に戻った妻が、はじめは冗談をいってると思った、と頬に手をあてる。最初の小芝居めいた態度は消えたが、今度は夫を詮索する女がそこにいた。
「どういうことなの、こんな部屋を借りて。いつからなの?」
「まだ、半月ほど……退屈だったし……」
「だれか女でも囲ってるのでしょ」
ぼくの思い過ごしでなければ、妻の目元はまだ少し面白がっているようだ。狭い部屋をぐるりと歩き回ってから、窓を開け放つ。
「でも、そんな雰囲気じゃないみたいね。フトンもないし……」
妻に背を向け、ぼくは畳のうえで膝を抱えた。
「部屋代、いくら」
「5000円」
秘密にしていた部屋を暴かれたうえ、金のことでとやかく言われるのはたまらない。急いで付け加える。
「もちろん、自分の小遣いだよ。やりくりして……」
「ふーん」
丸窓の、はめ殺しとばかり思っていたガラスを押し上げて開け、妻は隅々まで検分している。ぼくはだんだんに落ち着きを取り戻して、畳から降り、窓外に顔を向けながらタバコに火をつけた。
「おもしろい部屋ね。ちょっとした別荘気分じゃない」
小机に、尻をひっかけるようにして座りながら、妻が言った。
みっしり生い茂った夏草は小揺るぎもせず、入道雲は今日も相変わらずぼくを見下ろしている。
自転車の荷台に積めるだけ積んだ荷物を、落ちないよう支えて歩きながら、ぼくはうんざりしていた。
「こんなに運んだってしようがないよ」
掃除道具を投げ入れたバケツを片手に、もう片手には積みきれなかった布類を抱えた妻は、平気な顔だ。
「まかしときなって」
脇の下に汗をかいて気持ちが悪い。口を開くだけ損だ。もう黙って歩くことにした。
それから殺風景なぼくの部屋は、妻の手でまたたく間に生活感で飾られた。唯一の家具だった小机には花を、窓にはカーテン、ビールケースを伏せて置いたテーブルにはインスタントコーヒーが飲める支度まで。畳敷きには座布団がふたつ。
拭き掃除を終えた妻は得意げだ。
「ほら、部屋らしくなったでしょう」
ぼくは座布団にあぐらをかいて、こたえなかった。妻は気にした様子もなくインスタントコーヒーをいれる。
「だって荷物がひとつもないなんて、あやしまれるじゃない」
「なにも悪いことしてないぜ」
「すこしは生活しているふりをしなくちゃ」
「家主はバアさんだからだいじょうぶだよ」
タバコに火をつける。ぼくは床ばかり見つめていた。
「それに、小川なんていいかげんな偽名使って、どういうこと」
「そこがまた面白いじゃない」
思わず目を上げる。表札は、ちょっとした思いつきだった。ここでは小川という架空の男になりきって過ごそうとか、まったく別人としての時間がほしいとか、ハッキリした意図があったわけではない。
それでも、紙切れに自分ではない名字を書いて、戸口の横に貼ったとき、確かに、楽しかったのだ。
「じゃ、あたしは小川さんの恋人ってわけね」
妻が気楽そうに言った。こちらへ尻をむけて、電車の車窓から外を眺める子どものように座り、ぼくは妻から離れた壁にもたれて膝をかかえる。
「ここ、仕事部屋にしたら。マンガ描く道具持ってきて」
ぼくはまるめた足指を、じっと見ていた。
「小川さん、郵便がきてますよ」
家主が封筒を手にやってきた。こめかみに膏薬を貼ったシワだらけの顔は、いつ見てもバアさんかジイさんか分からない風貌だ。
着物の襟元がだらしなくひらいていて、浮いたあばらを見ていたぼくは、遅れて間抜けな声をあげた。
「手紙?」
宛名は小川三郎様。なかには、ヘタクソな女の子の絵。こちらに向かって片手を上げている。
吹き出しがふたつ。
お元気ですか。
こんにちは。
矢印で、「これ私です」とある。妻だ。ぼくは大の字に寝転がった。
どうも、妙な具合になってしまった。手紙はここで生活しているふりのひとつなのだろう。妻はどこまで本気なのか、それとも冗談のつもりなのか。
考えても答えの出ない事を、考え過ぎてくたびれ、眠っていたらしい。窓からなにかがにゅうっと差し込まれる気配に、開きかけた目をすぐまたかたく閉じた。
「毛布持ってきた」
赤かったまぶたの裏に影がさす。
「あら眠っているの」
窓から毛布を押し込んだ妻は、それから玄関にまわって部屋にはいり、寝台の脇に立った。狭い部屋では、他人の気配が濃密に分かる。
「起きているんでしょう」
息をつめてじっとしていると、なんだまた死んだふりかと静かに言って、足元に座った。
「毛布なんか持ってきてどうする気だよ」
精一杯、不快そうに言ってみたが妻は気にした素振りもない。
「だっていつも夜だけ留守なんて、へんに思われるじゃないの」
仕事部屋なら夜は留守でもおかしなことはない。それでも妻は譲らなかった。
「たまには泊まったほうがいいからよ」
「のりすぎだよ……」
日が暮れても、帰ろうというそぶりもない。ぼくだけ帰ろうなんてのも妙な感じだ。壁に向かって死んだふりのまま夜が来て、やがてカーテンを閉める音がした。
それからまた、少し眠ったかもしれない。むせるような、よく知った匂いに目が覚め思わず振り向いた。
「あたし、脱いじゃった」
素っ裸で、妻が立っている。乏しい灯りの中、体のデコボコの陰が濃い。
ぼくの顔は嫌悪感でひどく歪んでいたはずだ。だけど妻は、ぼくのことをぼくよりよく知っている。
情けないことに、ボッキしていた。
陽射しの強い日だった。
すっかり仕事部屋に仕立て上げられたぼくの部屋には、もはや気ままに通うというわけにもいかない。ゴロゴロばかりもしていられない。
形ばかり小机の前に座って、本をひろげていたが、退屈だった。
「あなた、お義母さんよ」
ぼくは啞然とした。もうこれ以上、この部屋で妻に驚かされることはあるまいと思っていたのに。
母はこの暑いのに、いつもの着物姿で汗まみれになっていた。古くさい髪型も額のしわも、しばらく前に会ったときと変わっていない。
いや、しわは増えているだろうか。不機嫌そうに、ぼくを睨んでいる。
「急にあなたの顔が見たくなったんだって。だから案内してきたの」
留守だとでもなんでも言ってくれたらいいのに。膝から崩れ落ちたい気持ちで、妻と母を交互に見た。あんぐり開いた口からは、なにも言葉は出なかった。
「なんのマネだよ、これは」
寝台に腰かけた母が、手ぬぐいで汗をふきながら怖い声を出す。そらみろ、こうなるに決まってるのに。ぼくは妻を肘でつついた。
秘密にしていた部屋を暴いて仕事部屋にしたのは妻だ。母を案内してきたのも妻なら、母に説明するのは当然妻が受け持ってくれなくては困る。
妻は首をすくめて愛想笑いを浮かべるばかりだ。
「いい年して、まったくあきれてモノもいえないよ」
「……仕事部屋だよ」
仕方なく答えると、母はべらんめえ口調になってたたみかけてきた。
「えッ、小川さんよ。お前いつから小川三郎さんになったんだ」
もうダメだ。母に背中をむけてうなだれた。妻はしおらしそうに目をふせている。
「親にもらった名前が気にくわねェのか」
だから、ただの遊びだよ、面白いじゃないか。母にそう言ったところで理解されるはずもない。
「モモちゃんもモモちゃんだよ、この子のいうことなんかきいてないで、もっとしっかりしなくちゃダメ」
矛先が妻に向いた。妻も寝台に腰かけ、すみません、と形ばかり殊勝げだ。
「親はこの年になっても毎日内職やってるというのに……」
ただただいたたまれなくて一人突っ立っていたが、これは初耳だった。
「なんで? 内職なんてしなくとも」
「バカ、人間というのは働けるうちに働いとくもんだ」
妻がちらりとこちらへ目線をよこす。母はタバコに火をつけた。
「こんな部屋を借りる金があるんなら、貯金でもなんでもしたらどうだ」
ぼくはまた背中をむけた。
「お義母さん、コーヒー好きだったわね」
妻がもてなしはじめる。狭い部屋は、コーヒーとタバコの煙と、母の脂じみた線香のような匂いでいっぱいになった。
「この子は子どものころから変クツな子でね」
結婚してから何百回と聞かされただろう話に、妻は愛想良く応じている。
「ちょっとそういうところあるわね」
窓の下の庭は、勢いのある草花でいっぱいだ。窓枠を越えて室内をのぞきこむように茂っている。寝台のすみにあぐらをかいて、背後の母と妻の会話を、聞かないふりでやり過ごした。
言いたいことを言って気が済んだ母が帰ると、ぼくと妻もまだ日が高いうちに部屋を出た。
自転車を押して歩くうち、むらむらと腹が立ってくる。
「なんでオフクロなんかに教えたんだよバカ」
日傘をさした妻は平気な顔だ。
「お義母さん相変わらず迫力あるわね」
小道を隠すほど草は目一杯しげり、あちこちに突き出た木立は緑がますます濃かった。丘の向こうに雲は、身を伏せるように低い。
もう、秋がくる。
了
2020/01/10