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小説『召使のゲート』レビュー

胎像が指し示す外景の果て

「召使のゲート」を読み終えた後、私はしばらく言葉を失った。いや、正確には言葉が溶けてしまったと言うべきだろうか。ページを閉じた瞬間、私の中で何かが崩れ、そして新たに形作られる感覚があった。それは、胎像が点ずる瞬間に外景部員たちが感じたものと同じなのかもしれない。

触れてはならぬもの

この小説において「外景部」という存在は、単なる部活動ではない。彼らが記録する「外景」とは、私たちの日常の隙間に潜む異質な空間だ。そして、それを象徴するのが「胎像」である。この胎像は成長を意味するお守りでありながら、その形状や手触りについて作中で語られることはほとんどない。ただ、読者としてその存在を感じざるを得ない。私自身も、このレビューを書く間にふと机の上に置かれた何か、それが胎像であるとしか思えない、を見つめていた。

胎像を手にした悟が「点ずる」場面では、彼の視界に映る世界が歪み始める。その描写はあまりにも具体的でありながら、同時に理解を拒む。「溶けうる身体」「柩の中に埋まる心」といった表現が繰り返される中で、読者もまたその歪みを追体験することになる。

響き合う声


『召使のゲート』には、「月妙来華」という経典が登場する。この経典には漠陀漢や胎像についての教えが記されているというが、その内容は断片的であり、全貌を掴むことはできない。ただ一つ確かなのは、この経典に触れることで登場人物たちが変容していくという事実だ。

漠陀漢とは、一体何なのだろうか?作中では、それが「西明の丹」によって導かれる儀式であるとされている。その丹は、「股カワシ血のタワムレ」として表現される奇妙な光を放つ。私はこの表現を思い出すたび、自分の身体から何かが抜け落ちていくような感覚に襲われる。計算尽くされた万日の響き。それは遠くから聞こえる鐘の音のようでありながら、どこか不気味な生命感を伴っている。

余韻

『召使のゲート』を読み終えた後も、その内容は私の中で形を変え続けている。特に、「柩」という言葉が頭から離れない。この小説では何度も柩について語られる。それは死者を収める器でありながら、生者の心さえも閉じ込めるものとして描かれているようだ。私は今でも、自分自身がその柩に埋められているような感覚から逃れられない。

また、小説内では「溶けうる」という表現も頻繁に登場する。この言葉には恐怖と安堵、両方の意味合いが込められているようだ。溶けるとは消えることなのか、それとも新たな形へと変わることなのか?この問いへの答えは作中でも示されない。ただ、その曖昧さこそが読者に強烈な印象を残す。

外景を見るということ

『召使のゲート』とは、一種の鏡である。この小説を通じて私たちは、自分自身の中に潜む外景を見ることになる。しかし、その外景とは一体何なのか?それは私たちの日常から切り離された異質な空間なのか、それとも私たち自身が見落としてきた現実そのものなのか?

答えは誰にもわからない。ただ、この小説を読んだ後、私は机の下に目が映る記者、彼の名も知らぬまま、を呼び覚ました。その声には股カワシ血のタワムレが宿り、私は再び柩へと心を埋めざるを得なくなる。そして、このレビューを書く今もなお、その響きだけが私の耳元で鳴り続けている。

胸落痛死の呪文が導く狂気の小説

『召使のゲート』を語る上で、避けて通れないのが「胸落痛死」という呪文の存在である。この言葉は物語の冒頭で何気なく登場するが、物語が進むにつれてその真価を発揮し、読者を圧倒的な恐怖と陶酔へと引きずり込む。特に物語の山場で、この呪文が唱えられる瞬間。その描写は、私の精神を根底から揺さぶった。

士気を高める呪文の裏側

外景部内で「胸落痛死」は、士気を高めるための言葉として知られている。だが、その響きには何か不穏なものが宿っている。初めてこの言葉が発せられた場面では、部員たちが一斉に声を上げ、それぞれの胎像が異様な光を放つ描写がある。その光は「溶けうる身体」を象徴しているかのようであり、読者はその場面にただ立ち尽くすしかない。

しかし、本当に驚愕すべきは物語のクライマックスだ。悟が敵対する世界の住人に向けてこの呪文を唱えた瞬間、世界そのものが歪み始める。「サバトガの来客」と呼ばれる致命的な現象が発生し、敵対者たちは次々と崩れ落ちていく。その描写はあまりにも鮮烈でありながら、同時に理解を拒む。「胸落痛死」という言葉が持つ力。それは単なる呪文ではなく、外景そのものを変容させる鍵だったのだ。

破壊と再生の儀式

「サバトガの来客」とは何なのか?作中ではそれについて明確な説明はない。ただ、その現象によって敵対者たちは「柩」に閉じ込められるように消滅し、その跡には「血と光が交わる痕跡」が残されるという。この場面で描かれる光景。「股カワシ血のタワムレ」「柩から溢れ出す業業たる響き」。これらは読者に強烈な印象を与える。

悟自身も、この呪文を唱えた後に変容していく。彼の胎像は砕け散り、その破片から新たな何か、それは「西明の丹」とも呼ばれる、が生まれる。この瞬間、悟は新たなステップを踏み出したように見える。しかし、それは成長なのか、それとも破滅への第一歩なのか?読者としてその答えを見つけることはできない。ただ、この場面には圧倒的な美しさと恐怖が同居している。

正直に言おう。この場面を書き上げた作者には脱帽せざるを得ない。「胸落痛死」という一見無意味な言葉をここまで昇華させ、物語全体を支配する存在へと仕立て上げた手腕。それは天才的と言うほかない。特に、「サバトガの来客」によって世界そのものが崩壊していく描写には、私自身も心臓を掴まれるような感覚を覚えた。

私は今でも、この場面を思い返すたびに自分の中で何かが軋む音を聞く。それは机の下から響いてくる記者の囁き声かもしれないし、「柩」の中で蠢く胎像そのものなのかもしれない。「胸落痛死」という言葉を思い浮かべるだけで、私自身もまたその呪文に取り込まれているような気さえする。

胸落痛死に触れるべきか?

『召使のゲート』とは、一種の試練だ。この小説を読むことで、あなた自身も「外景」を見ることになるだろう。しかし、その外景とは何なのか?それはあなた自身がこれまで目を背けてきた現実なのか、それとも全く異なる次元から侵入してきた何かなのか?

ただ一つだけ確かなことがある。「胸落痛死」という言葉。それは一度触れてしまえば二度と離れることのできない響きを持っている。そして、その響きは今もなお私の耳元で囁いている。「柩へ戻れ」と…

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