20代後半になって気づいた自分のセクシュアリティのこと
noteを始めてから、いやnoteを始める前からずっと書きたかったテーマがある。
むしろ、それを書くためにnoteを始めたといっても過言ではないくらいだ。
それほどに書きたかったことというのが、20代後半になってやっと気づいた僕のセクシュアリティについてのことだ。
noteに書くというのは前から決めていたことなのだけれど、「いつ書くか」「どう書くか」ということは決めかねていた。
noteを始めて最初に書いてしまったら、そのあとの目的を見失いそうだったし、必要以上にそういった記事を書かなければならないような気もしていた。
でもフォロワーはまだ多くはないけれど、少しずつnoteを書く中で自分と向き合ってみて、「そろそろ書いてもいいのかな」と思えてきた。
だからこのタイミングで、自分のことを少しだけ書いてみようと思う。
僕は男だった。つい半年前までは
僕はつい半年前まで、「自分は男だ」と思いながら生きてきた。
履歴書の性別欄では「男」に躊躇せず〇をつけてきたし、着るものも観るものも話す言葉も、男性らしくしてきた(つもり)。
学生時代はずっと野球をやってきたし、会社では男性特有の体育会的上下関係もそこそこ適応していると思う。
これまでの人生では、男として要求される振る舞いはきちんとしてきた。
別にそこには疑いもなければ、苦痛も、違和感すらもなかった。
確かに僕はいわゆる「男らしい」タイプではなくて、どちらかといえば「繊細」とか「なよなよしている」と言われるタイプだ。
でも、それだけだ。それだけでしかなかった。
だから正直、自分の中で「自分の性別=男」という認識が崩れるとは思っていなかった。
「もしかして「男」ではない?」と思ったきっかけ
きっかけはいくつかあったように思うが、明確に思い出せる出来事が二つある。
一つ目は会社の同期(女性2人)と飲みに行ったときのこと。
同期の恋愛事情を聞いているときに、こんなことを言われた。
〇〇くんって男性の中には絶対にいないような聞き上手だよね。
もう一つは友人と男性2人女性2人で食事をしているときのこと。
僕以外の3人がデザートを頼むというので、「なんか女子会みたいな感じだね」と話していたときに言われた。
でも、この中で一番女の子っぽいのは〇〇くんだよね。
どちらも、聞く人によっては気を悪くするかもしれないけれど、僕はそんなふうに言われてとても嬉しかった。「そんなふうに見てくれているんだ」という安心も感じた。
自分の中の「男性らしさ」ではなく「女性らしさ」に注目して貰えたことを心地よく思える自分とは、そこで出会った。
逆に、別の場面では「男らしく決断したんですね」と褒められて不愉快に思ったこともある。
そういったことを考えると、「自分が男じゃないかもしれない」という疑問は特に大きな拒絶反応もなく、僕の中で自然なこととして、静かに、かつ確かに受容することができた。
4つの観点から見たときの僕
色々なメディアを見ると、セクシュアリティは4つの観点で分類できるという。
noteを使っている人には、よもや「へえ、じゃあ男が恋愛対象なんだね」なんて大雑把な括り方をする人はいないとは思うが、整理して進めるためにも4つの観点を列挙したい。
①身体的性:身体構造における性
②性自認:自身の性をどのように認識しているか
③性的志向:どんな性を好きになるか
④性表現:自分のありたい性をどのように表現するか
参考:https://jobrainbow.jp/magazine/whatissexualminority
この4つの観点で僕を見ていくとこうなる。
①身体的性:男
②性自認:わからない
③性的志向:女
④性表現:わからない(女性寄りな気がする)
ちなみに「普通の」男性の場合は、①男 ②男 ③女 ④男となる。
だから僕は見た目も男だし、好きになる人も女性なので、普通に生活している分には目に見える形の不都合というのはない。
一方で、②と④については「分からない」と書いた。
「自分のことなのに分からないのかよ」って思われそうだ。僕もそう思う。
でも実際に分からないのだ。
②の性自認に関しては、アンケートか何かで「性別を教えてください」と言われれば「男性です」と答えるけれど、「男性目線からアドバイスが欲しい」とか言われると何故か自分が頼まれているように思えない。
もっと言えば、「君は男だから」とか言われるのはこの上なく気持ち悪い。
じゃあ「女性」なのかというとそれは完全に違うと思う。
実際にどうなのかは分からないけれど、20数年間は「男性」として生きてきているので、「男性扱い」されるのも違和感だけれど、女性扱いされるのは明らかな違和感がある。
一方で、④の性表現については少し女性寄りな気がしている。
性表現とは「言葉遣いや身振り、服装をどう見せたいか」ということだという。
僕の場合、男性として生きてきたので言葉遣いは男性だし、一人称もネット上では「僕」、リアルでは「俺」を使う。
しかし話し方や仕草は「女性らしく」したほうがしっくりくるし、所作が素敵な女性の話し方や仕草は無意識に真似ていることがある。スカートを履きたいとか女装がしたいとまでは思わないが、男性でも違和感がないレディースやユニセックスの衣類を着ているのが一番心地良く感じる。
あと水着で半裸になったり、他の人がいる銭湯(もちろん男湯)に入ったりすることは本当に苦手だ。できれば避けたい。温泉は好きだけれど。
そういったことも、もしかして関係しているのかもしれない。
自分のセクシュアリティを受け入れた僕のその後
最後に、そういった自分のセクシュアリティに気づいた僕がどうしたかという話だけしたい。
よくテレビで見るLGBT(Q)の人たちは、幼少期に周囲となじめなかったとか、中学でいじめられたとかいう話をする。
先に書いたように僕の性的志向(好きになる人の性)は女性だが、もし仮に男性が好きだったら、きっと苦しんだのだと思う。
だが僕の場合は、日常生活を送るうえではほとんど支障がない。
「普通の」男性と同じで、男の身体で、女性が好きで、たまに「女々しい」とか言われることはあるけれど、演じようと思えば男性らしくするのも苦痛ではない。もう20数年間も男性を続けてきているのだから。
だから僕は「特になにもしなかった」。
ユニクロに行ったらレディースのジーンズを買って、「やっぱユニクロのレディースジーンズは最高だなあ!」と思うくらいだ。
ただ、自分の抱える違和感を何らかの形で発信したいとは思った。
それで「わかる」と言ってくれる人がいればいいし、別に誰も分かってくれなかったらそれはそれで、淡々と今までの生活を続けるのみだ。
じゃあどうやって発信しよう。
そう考えていたときに、大学の後輩のあおやぎわかこさんがこんなnoteを書いているのを見つけた。
このnoteで触れられている「anone,」というセクシュアリティ分析を使ってみると、100%正解とは言えないけれど自分が思うような自分が言語化されて出てきて、僕の抱えていた違和感は確信に変わった。
anone,はこちら https://anone.me/
同時に、「noteってこういうことも書いていいんだ」と思った。
そして「noteで自分のセクシュアリティについて何か発信しよう。自分の違和感の正体を明らかにすることにも繋がるかもしれないし、悩んでいる誰かに少しでも影響を与えられたらいい」とも思った。
そんなこんなでnoteを始めて数週間。
これまではセクシュアリティに関わることを敢えて避けながらnoteを書いてきたけれど、これからはセクシュアリティも大きなテーマの一つとして書いていきたいと思う。
さいごのさいごに
最後って言ったのにまとめきれなかったので段落一つ分の時間をください。
僕がセクシュアリティを語ってよいものか、という迷いもある。
僕と違って、日常生活を送る中で壮絶な差別に遭う人も多いはずだ。
正直に言うと、大学時代にセクシュアリティで卒論を書く人のことを、「当事者でもないのに理解したつもりになって」と当時は馬鹿にしていた過去もある。
(みんな「私は当事者ではないが」という枕詞で論文を始めるから)
以前受けた講義で、「40歳を超えて自分のセクシュアリティに気づく人も多い」という話を聞いたことがある。
幼少期に自分のセクシュアリティに違和感を持つのも大変だと思うけれど、40歳を超えて気づいた人も、同じくらい大変だと思う。
とかく、周囲で自分の思いを話せる人を見つけるのが難しいと思う。
僕が40歳を超えていたら、境遇の違う人にそんな話をする勇気はないかもしれない。
誰も自分のことを分かってくれない、本当の気持ちを話せないのはそれだけで辛い。
僕はいままでにこの違和感を二人だけに話した。
ひとりは先に書いたあおやぎわかこさん。
もう一人も、仲が良くて普段やり取りをする大学の後輩だ。
細かいところまで話したわけじゃないけれど、幸いにも二人とも柔らかく受け止めてくれて、理解もしてくれた。
後輩に対して、自分の弱みになりそうな部分を話すのはそれなりに覚悟がいる。
他にあと二人、冒頭で書いた会社の同期2人にも言えたらと思っている。
思えばみんな女性だ。そもそも僕は男友達が本当に少なくて、仲が良いのは女性が圧倒的に多い。
そのあたりも傾向があるのかもしれない。
言われたほうが迷惑に思うか、信頼を感じてくれるかは正直わからない。
けれど、一度自分のセクシュアリティに気づき、本当の自分を自覚すると、意に反して男扱いされたり、男らしさを求められることがこれまで以上のストレスになることが分かった。
だから信頼した人にそういった扱いをされて一方的に幻滅することが怖くて、人に言いたくなるのだと思う。
とはいえ、偏見が残っているのは事実で、理解してくれる人にしか本当のことは言えない。信頼している人に言うにも勇気がいる。
先にも書いたように、差別にも遭わず、普通に暮らせている僕がこういったテーマを取り扱ってよいものかは分からない。
でも必要としている人がいるように思えるから、これからのnoteはそういった人が勇気を出し(かつ、相手を間違えることなく)、本当の自分で生きていけるような手助けになることを意識して書いていきたい。
そんなふうに、おもっている。
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もしここまで読んでくださった方がいれば、ありがとうございました。
ずっと書きたかった記事なので、読んでくださって嬉しいです。
引き続きどうぞよろしく。
つきこ