あの日、H先生が伝えたかったこと
高校にH先生という先生がいた。
H先生はヤバい人だった。
鋭い目つきの強面で、髪はパンチパーマ。推定180センチ100キロの熊みたいな体格で、ドスの利いた低い声で話す先生だった。
生徒が不届きをすると、激高するタイプの人だった。
一度、昼休みに校則を破って学校を抜け出した人を見つけた際に、あまりに大きな声で怒鳴りつけるものだから、近所の人が「高校生がヤクザに恫喝されている」と警察に通報を入れたこともあった。
実際、自習時間内にふざけていた奴がH先生に見つかって、投げ飛ばされた後に首を絞められていたこともあった。
「人を殺したことのある目をしている」
学校内ではそんな風に言われていた。そんな人が教師をしているはずはないのだけれど、それが妙に説得力を持つくらいにヤバい人だった。
そんな人が僕の高校1年生と3年生の担任で、かつ部活の顧問だった。
しかし同時に、当時4歳の娘を溺愛していたり、酒好きの癖に酔いが早くて、飲むと必ず潰れるような、人間らしい弱みのある人だということを僕は知っていた。
僕のいた部活では監督と顧問が分かれていて、監督は技術指導、顧問が事務作業を回していたが、最後の大会で僕らが負けて引退が決まったとき、監督から「絶対に泣くな」と言われた僕らは誰も泣かなかったのに、顧問であるH先生だけは隠しもせずに一人で大泣きしたりもしていた。
普段怒鳴り散らしたり、悪事を働いた生徒に暴力をふるうのは、そんな弱い自分を隠すためだったのではないかとも思えた。
僕も何度も怒鳴られて、殺されそうなくらいの恐怖を身体に覚え込まされたけれど、そういった一面を知っていたから、H先生に恐怖は覚えど嫌いにはなれなかった。
* * *
そんなH先生は、ときどき訳の分からないことを言う人だった。
ある朝のホームルームで、乱暴に扉を開けて入ってきたH先生は明らかに不機嫌だった。
「あ、今日はヤバい」とクラスの全員が瞬時に悟った。
ゆっくりとした歩みで教壇に立ったH先生は「お前らにひとつ言っとく」と低い声でつぶやくと、
「女は男の玩具になるな」
それだけ言って、教室を出ていった。
先生の去ったあと、クラス中はなんとも言えない、微妙な空気が支配した。
笑って良いのか悪いのかも分からなければ、意図も分からない。
「女」とか「男」とか「玩具」とか、生々しい響きだけが耳の奥にいつまでも残って、僕らは気恥ずかしく俯くしかなかった。
またある朝、同じように教室に現れたH先生は、何も言わずに「明るい」「元気」「活発」と黒板に殴り書きをした。
「お前ら、こんなものがいいと本当に思ってるのか。『明るくていいですね』『元気でいいですね』って誰が決めた。
暗くたって真面目だって、別にいいだろ」
その日も、それだけ言って去っていった。
書き残された「明るい」「元気」「活発」という文字を、授業の準備のために誰かが丁寧に消した。
そんなことがあったから、暴力的な意味で「ヤバい」と言われていたH先生は、また別の意味でも「ヤバい」と言われるようになっていった。
H先生は僕らが卒業する年に、別の学校に異動になった。
* * *
H先生が僕らに何を伝えたかったのか、その当時は全く分からなかったし、約十年経った今でもよく分からない。
言葉をその通りに読み解いていくと、「他人に決められた価値観で生きるな」と言っているようにも思える。
女は男に求められるために生きているのではないし、人に好かれるために無理に明るく装う必要なんてないんだ、と。
でもどこか、あの不器用なH先生が、言葉の裏に理路整然とした正論を含ませるような気取ったことはしないような気もしていて、単純に女子のスカートの丈を注意したかったり、暗くて真面目な同級生の一面にも目を向けろと言いたかっただけのような気もする。
他校に異動になったH先生はしばらくは僕の学校にふらっと現れては部活の練習を遠くから見ていたようだが、しばらくすると音信不通になり、年賀状も郵便局から差し戻されてくるようになった。
それからH先生とは一度も会っていない。
一昨年、高校3年のクラスの同級生同士で結婚したときにメッセージがきたというから、少なくとも何らか連絡はつくのだと思う。
あの日、H先生が僕らに何を伝えたかったのか、僕は知りたい。
もしいつか会う機会があれば、真意を教えてくれるだろうか。
それとも不愛想に過ごした朝のホームルームでの一言など、やはりもう忘れてしまっているだろうか。
(残念ながら、毎年僕は同窓会に呼ばれないので同級生と記憶を共有することはできないのだ)
突然言いたいことだけ言って教室を去っていったH先生と、脈絡もなく好き勝手にnoteを書き連ねている僕は、少しだけ似ているように思う。
あの日のH先生の姿といまの自分と重ね合わせて、そんなことを考えていた。
つきこ
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