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「報われる」とか「報われない」とか。(学童保育で出会ったTくんに「ありがとう」を込めて)

「努力は報われる」と言う人がいます。
一方で「努力は報われない」と言う人も少なからずいるかと思います。

どちらかというと前者は「自分を高めたい」とか「みんなでやり遂げることが大事」みたいな過程重視の人に多いように思えて、後者は「どれだけ頑張っても負けたら意味がない」という勝負の世界に生きている人に多いような気がしています。

きっとどちらが正解というわけでもなくて、どう捉えるべきかはそのときの状況と立場で変わるものでしょう。

ただ仮に望んだ結果は出なくとも、あらゆる物事には「報い」と言えるような、何らか思いや、努力や行動に対する報酬がなければ、あまりにも救いがないように思えます。

「報われない」という絶望感

少しだけ昔の話をします。

僕は学生時代に一年間だけ、学童保育のアルバイトをしていました。
近所の小学校の授業が終わる頃に学校の保育ルームに出勤して、放課後の子供たちとその両親の仕事が終わるまでの間遊んだり、宿題をさせたり、快適に過ごすための雑用をするという仕事です。

サッカーをしたいと言われれば子供たちの体力が尽きるまで付き合い、喧嘩をすれば仲裁に入り、親が迎えに来れば世間話をしたりと、時給は低いし体力も使うけれど、なかなか楽しい仕事だったと思います。

就職が決まっていた僕にとっては一年間の期限付きのアルバイトだったけれど、子供たちは懐いてくれていたし、僕が辞めるときに少なからず寂しがってくれる子もいました。

そのときには、きっと数年後にはこの子たちは僕のことなど忘れて大きくなっていくのだろうという、諦めのような穏やかな気持ちを持つ一方で、こうして同じ時間を共有したことが、この子たちに何らかの影響を与えられていたらと期待を持ってもいました。

そして僕が学童保育を辞めて3ヶ月後。僕もなんとか社会人の生活に慣れてきたころ。
小学校の近くで偶然、当時保育ルームに来ていた女の子を見かけました。
両親の帰りが遅く、僕も比較的遅い時間まで毎日遊んでいた子でした。

少し迷いながらも、懐かしさから思わずその子の名前を呼んでみると、怪訝そうな表情で「だれ?」と一言。
知らない人に声をかけられてもついていってはいけないと教わってもいるのでしょう、すぐどこかに走っていってしまいました。

その女の子が悪いわけではありません。僕のエゴなのですから。
それに、僕も小学生のときの教師を全員思い出せるわけではありません。

でも、あれほど一緒に遊んでいても、子供の記憶から自分はすぐに消えてなくなってしまったのだと、女の子が走り去ったあとで報われない虚しさを覚えたのも事実です。

別に感謝されたいとは思っていません。
ただ仮に教員がそういった「見返り」を求めない聖職だとしても、教員免許も持っていなければ教職課程でもない、たかがアルバイトでしかない僕には、自分の存在がこの子に何ら影響を与えていなかったという、とてつもなく大きな絶望感を事実、抱えてしまったのです。

5年越しに「報われた」こと

果たして、僕のその鬱屈した思いはつい先日、数年の時間を経て消し去られることとなりました。

あれから5年が経ち、僕も自分が学童保育をしていたことなど思い出しもしなくなったころ、当時の保育ルームの所長から電話がありました。

「Tくんが会いたいと言っている」

そういう内容でした。

Tくんという子を僕は鮮明に覚えています。
当時は少し問題を抱えていた子で、僕がアルバイトをしていた当時は小学1年生でしたが、家庭環境の影響があってかよく泣き、よく怒り、そしてそんなことはすぐに忘れてしまう子でした。
僕が描いた下手なジバニャンの絵をとても気に入ってくれた子でもありました。

そんな彼だからこそ、彼が僕のことを覚えていて、しかも会いたいと言ってくれていることにとても驚きました。
彼はいま6年生になって、春から中学生になるそうです。その小学校の卒業前に僕に会いたいということでした。

僕は可能な限り早く保育ルームに行ける日程を調整して、彼に会いに行きました。
5年ぶりに会ったTくんは背が伸びていて、でもいつもヘラヘラ笑っているのは変わっていなくて、僕と再会して少し嬉しそうにしたけれど、時間が経つと僕が来たことを忘れたように一人でブロック遊びを始めたりするのでした。

それでも、5年経っても彼が僕のことを覚えていてくれたことが何より嬉しくてたまりませんでした。

きっと小学校を卒業した彼と会うことはもう二度とないでしょう。
それでも、彼だけは僕と一緒に遊んだことや、僕が教えたことを少しでも覚えたままで大きくなってくれるような気がして、先に書いた女の子のことも含めて、学童保育で子供たちと接したことが報われたように思えたのです。

同時にこれからの人生で僕が成す様々な挑戦や努力、人との出会いには無駄なことなどなくて、何らかの「報い」として帰ってくるような、そんな気持ちにもさせてくれました。

「報われる」とか「報われない」とか

努力は「報われる」のか「報われない」のか。

真偽は冒頭に書いた通り「状況と立場による」のだろうけれど、僕は少なからず「報われる部分はある」と思っています。

例えば、

練習しても試合には勝てなかったけれど、次の試合に勝てるような実力は身についている
あれこれ考えた物語は形にならなかったけれど、その中で発見した考え方が日々の生活で生きてくる
ほとんどの子は僕のことを忘れてしまったかもしれないけど、Tくんは僕のことを覚えてくれている

直接的な報酬じゃなくても、「やってよかった」と思えるものがどこかにあるはず。
「やらなければよかった」の中の、ごく僅かな「でもこの部分はやってよかった」を胸に僕らは生きていく。

このnoteだって、投稿してどれだけの人に見られるか分からないし、「別のことに時間を使えばよかった」と思うかもしれないけれど、それでも僕はこんな文章を書きながら自分と向き合う時間を何かの糧にするのだと思います。

だからこれからも色々な挑戦をして、努力をして、色々な人と関わっていきたい。

それを教えてくれたTくんに「ありがとう」を込めて。

(Tくんと再会した帰りの電車の中で)

つきこ

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