人生に寄り添う歌声-vol.1 エラ・フィッツジェラルド
最近よく「歌声」について考えます。『なぜわたしはこの歌手の歌声に惹かれるのだろう』と。母の子守唄から始まり、幼少期や青春期、色々な音楽に夢中になってきました。ある程度の期間音楽を聴いていると、自分の好む歌声が定まってきているので、傾向のようなものができてくるのだろうとは思うけれど、その中心にあるものは一体何のだろう。
このようにわたしの人生に寄り添ってくれている「歌声」をシリーズで紹介できればと思います。
エラ・フィッツジェラルドの歌声
エラ・フィッツジェラルドとの出会いは、20代の頃だったと思います。深夜のラジオから彼女の歌声が聞こえてきました。
深い夜の時間が、ゆっくりと彼女の歌声で満たされていった時、胸になんとも言いがたい感情が湧き起こりました。
不思議なエアポケットに入ったような感覚でした。人生の中でほんの稀に入ることのできるマジカルな空間。
ほんの少し時空間が揺らぐような、とはいえお酒に酔っているのとは違う、確かに意識はここにあるのだけれど、現実を遠くに感じるような時間。
このちょっと奇妙な体験以来、またこの歌声で私は内省すると同時に深い場所へと降りていけるのではないかと思うようになりました。ちょうど村上春樹の小説に出てくる主人公が井戸に降りていくように。
そんな風にしてエラを知った私にとって彼女の歌声は自分と向き合うような特別なものとなったのです。
その歌声を生んだ人生
エラの生い立ちをご存知でしょうか。
1917年に生まれ、ニューヨークで成長した彼女は父親の顔も知らずに育ち、14歳で孤児になりました。
学業に専念できず、売春宿やマフィアなどの裏社会で下働きをする思春期、少年院やホームレスの生活。若くして社会のどん底を味わっていました。
初めて人前で歌ったのは17歳。アマチュアのコンクールで、歌う予定はなかったにもかかわらず、当日急にその機会が到来。彼女の憧れのジャズシンガー、コニー・ボズウェルを真似て歌うことになりました。エラはそのコンクールに勝利し、才能を見出されバンドボーカルの誘いを受けたのが歌手としての始まりでした。
彼女の才能はあっという間に当時のジャズシーンに広がっていきました。思いがけないチャンスと、自分の歌声で人生の「どん底」から這い上がることが出来たのです。ドラマチックなサクセスです。
彼女の温かみのある笑顔からは、想像しにくい10代の生活。けれどもその後の彼女の人生を紐解いてみると、貪欲なまでに二度とあの「どん底」には戻りたくないという思いが感じられます。
自分の才能で切り拓いた運命を傷つけまいと誠実に歌と生涯向き合い続けたような印象を彼女の人生から感じます。
きっとその真面目で温厚な性格から、騙されたり、利用されたりして辛酸をなめるような出来事もあったのではないでしょうか(私生活ではなかなかよきパートナーに巡り合うことはなかったようです)。
そんな彼女は生前こんな言葉を残しています。
彼女の歌声に宿る、ほっとさせてくれる母親のような安心感と包容力。芯が温まってゆくような感覚。
もしかすると、それは深く傷つき、悲しみを知っている人の持つ力なのではと思うのです。
わたしはエラの歌声を通してあのラジオから聴こえた歌でそのエネルギーに触れられたのかもしれません。
ガーシュインは、エラの想いが詰まった「原点」
長いキャリアのエラの作品群の中で、わたしがとても大切に聴いているアルバムをご紹介します。
バンドボーカルとしてキャリアをスタートしたエラが、初めてソロとして発表したアルバムです。
ジョージ・ガーシュインの曲を奏でるエリス・ラーキンのピアノが見事にエラの歌声を引き立てる名盤です。
エラの歌声に添えられているのはピアノの伴奏のみ。シンプルが故に彼女の実力を堪能できるこのアルバムは、わたしにとって「エラを良さをじっくり味わう一枚」です。メロウなピアノに、彼女の歌声がとろけるように寄り添う、うっとりと聴き惚れてしまう彼女の歌声。
何度でも何度でも聴きたい、帰ってきたい「家」のような一枚。
特に一曲目の『Someone To Watch Over Me』は多くのミュージシャンによって現在も歌い演奏されているスタンダード曲。フランク・シナトラも、バンドボーカルをからソロとなった第一弾のアルバムの一曲目がこの歌。その数年後にソロとなったエラが彼をなぞるようにこの曲を一曲目にしたのはただの偶然なのでしょうか。
ちなみにシナトラは、エラのことを「私の知っている女性で、彼女ほど歌のうまい歌手はいない」と言っていたそう。
惚れ惚れするような美しいビブラート、技巧だけではない、包み込んでくれるような慈悲深く温かさをもった声。
こうして50-60年代、彼女は数々のスタンダードナンバーを歌い、歌手としての地位を確実なものにしていきます。「作曲家シリーズ」としてこのアルバム以外にも、いくつか作曲家別のアルバムを発表してます。
他にとても気に入っているのは、コール・ポーターの曲を歌うこちらのアルバムです。
アメリカで時代を超えて愛されるコール・ポーターのスタンダードな曲を生き生きと、堂々と歌うエラ。前者とは違う雰囲気ですが、きらめくようなエナルギーとバイブス、スイング。繊細さとダイナミズムが共存する彼女の声。こちらもずっと聴いていきたい名盤です。
愛され続ける歌声の理由
こうして長年彼女の歌声に慰められ、励まされていると、
「一体彼女のこの魅力的な歌声の秘密とはなんなのだろう。」
今ではジャズ界の永久欠番の彼女ですが、じわじわとその魅力の源に近づいていくことができいるように思います。
もう一つ、彼女の言葉を引用します。
絶望するような10代を送っていた彼女がこう言うのです。自分の置かれた状況に悲しみ、落ち込むことから実際に這い上がった彼女の言葉には重みがあります。歌を通して彼女が伝えたかったことへと通じる想いがそこにはあります。そして、いつやってくるかわからないチャンスを逃さなかった直感力も彼女を押し上げた理由の一つだと思いました。
彼女の長く安定したキャリアにはもう一つ秘密がありそうです。歌手となってからの彼女には私生活も含め大きなスキャンダルはありませんでした。
きっとスターとなってからは、周りにお酒やドラッグやお金の誘惑もたくさんあったと想像しますが、彼女の信念は揺るがなかったのだと思います。
私たちが時代を超えてエラの歌声に感動する理由は、彼女の悲しみを知った目、愛を捧げる魂、そしてたゆまず信念を貫く歌い続ける強さにあるのだと感じました。改めて彼女の残した功績に、私は勇気をもらうのです。
あの夜、わたしが入ったエアポケットは、もしかすると彼女の導きだったのかな、なんて思うと歌声の持つ魔法の力とはなんと美しいのだろうと思うのです。
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