運命について
(運命は「選んでいるのか?」、「決まっているのか」)
あなたのいまいる場所が、あなたの選択によって決まっていたとしても、あなた以外の存在による調整によって決定されていたとしても、そのふたつのどちらが本当なのか考える意味はほとんどない。
あなたがもし自然な状態でいるなら、「どちらでもいい。どちらにしろいまワタシのいる場所がワタシの居場所」と思う。
どちらかの考えを、「そんなはずはない」「そんなわけはない」と強く、強く否定したいきもちがあるのなら、あなたには生きることへの嫌悪があるので、あなたは悩むポイントをまちがっている。あなたは、「生を嫌悪したまま生きているいまの私」について考えた方がいいと思う。
運命論にしろ、非運命論にしろ、そのどちらかを否定するヒトの言い分はこうだと思う。
「私のこの人生を、私が選んだなんてよくもそんな酷いことが言えますね」
「私のこの人生が、私の意思以外のもので決まってしまうのなら私がこの人生を生きるのは無駄だと思う」
どちらも人生を嫌悪している。
たしかに、もしかするとこの世が牢獄のように思えることもあるかもしれないが(実際のところワタシには牢獄というものがどういうものなのかよくわからない。三次元の像を檻に閉じ込めてそれに一体なんの意味があるのか)、その地点からあなたが物事を考えるなら、「ここにいるのは罰のためだ」とエゴが思考の流れを決定し罪と罰の意識を生み出すだろう。
エゴは、「牢獄にいるということは私に罪があるに違いない」という、書けばアホみたいな語順の想念を本気で「論理的」だと信じて鼻の穴を膨らませている。
エゴはなにしろ「私からみて綺麗に積み上がっている積み木」が大好きだから。そしてそのうち積み木がバシャンと大きな音を立てて崩れる音を聞いて大混乱する。バカみたい。
その嫌悪がなくならないかぎりどちらにせよあなたは自分の三次元的な存在を受けいれることはできない。
あなたの肉体は三次元にあり、三次元とは二元性を表現する場だから。
「私は自分の存在を受け入れつつも嫌悪する」というのは、「コップが水で満たされつつも空である」というくらい変だということに気がついてほしい。
あなたには自分の存在を受け入れるか、受け入れないかの二択しかないし、受け入れなかったとしても自分の像が「消えない」この星が、あなたを受け入れていないわけがないことに気がついてほしい。
あなたはあなたに受け入れられなかったとしても、宇宙はあなたを消したりしない。あなたの肩を強く抱きしめ、背中を押し、両手で頬を包むことがなかったとしても、あなたは宇宙から消えない。
なぜなら、あなたは宇宙を構成する一部だから。
だから正直なところエゴが「受け入れられている」「受け入れられていない」で悩むのがワタシにはよくわからない。エゴはイノチを人質にとり、自然を、流れゆくものを自分の意のままに、思い通りにあやつりたいと思う。なぜなら、エゴは肉体の守り主であり、魂は無限なのに比べて、この肉体は有限で、やがてエゴとともに傷つき朽ち果てることを知っているからだ。
そう考えるとかわいそうな気もするけれど、どうにもならないことを嘘をついてどうにかなるように見せかける根性はキライ。
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利害関係をはっきりさせるためにいうとワタシはこの星の変遷に関与するためにきた存在ではない。
あなたたちを「あげる」ためにきたわけでも「さげる」ためにきたわけでもない。ワタシはくるつもりはなかった。手違いできた。いろいろあってこのヒトが声を聴けるようになったら話をしてる。
この星よりは高次だけどワタシの星の存在を地球人がみたらやる気がないようにみえると思う。やる気。やる気ね。
手違いできて、このヒトの中にいて、このヒトは目覚めないとおもっていたからこのヒトが死ぬまで寝ていようとおもった。でも起きた。だからこのヒトはワタシにとって「乗りかかった船」。あなたは笑うかもしれないけどワタシはふだんこのヒトの左脚のすねのあたりにいる。
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あきたから終わり。