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小春日和のセーラムドライブ 6

 暦は先日の天皇賞より冬に向かって2週間進んでいたが、東京競馬場は小春日和の穏やかな空気に包まれていた。南向きのスタンドの指定席に座っていると、秋の弱々しい日差しといえども、うっすらと汗を書く程だった。

「この前テレビで観た時より広く感じる。馬が小さくしか見えないよ」
「テレビ中継はカメラのズームで映してるからな」
美里が席に座って口にした感想に、省吾が答えた。
「せっかく現場にいるんだから、馬を近くで見よう」
 省吾はそう言って席を立ち、美里もそれに従った。エレベーターで1階に降り、パドックに向かった。

 午後のまだ早い時間帯のパドックは空いていて、すり鉢状になっている最前列の柵まで、二人は進んでいった。
「すごい。近くで見ると大きいね」
「あのおなかの白い泡みたいなの何? 汗?」
「あっ、あの馬、今こっち見た。目が合った」
 省吾は、眩しそうに額の前に手をかざしながら、次々に感想を口に出す美里の無邪気な横顔をちらっと見て無言で微笑んで、あとは周回する馬と手元の競馬新聞とに交互に視線を向けていた。
 しかし、馬券の検討をしているわけではなかった。やがて、騎乗合図がかかり、騎手を乗せた馬が次々と地下馬道に消えていった。
「ねぇ、省吾。また考え事していたでしょう?」
指定席に戻ろうと、二人並んで歩き始めた時、美里が口を開いた。
省吾が前を向いたまま無言で歩いていると、美里は続けた。
「私たち二人のつきあいのこと、悩んでる?」

 指定席エリアは、横に長く通路が延びていて、8席を1ブロックとした割合で、その横方向の通路から下方に降りていく縦の通路がある、いわゆるひな壇状の構造になっていた。横方向の通路には、胸の高さ程の位置に、もたれかかるにはちょうどよい手すりがある。
 省吾と美里は、パドックから戻ってきて、自分たちの席に座る前に、その手すりにもたれながら、数年前に馬場内に設置されたターフビジョンを正面に見ていた。

「来月…、本配属が発表になる。今の支店に残ることはないのは美里も聞いているよな」
省吾は正面を見たまま話し始めた。
「それで、その後、どうするか、だ。俺たちは」
美里は黙っていた。

 程なくして、スタンド内には発売締め切りのベルが鳴り響き、馬券発売窓口前に集まっていた人の群れが戻ってきた、やがて、ファンファーレが鳴り、実況放送とともにレースがスタートした。
 1番人気の逃げ馬が人気薄の差し馬にゴール寸前で交わされると、歓声と悲鳴と罵声の入り混じった場内の騒音も、すっとフェイドアウトした。

「省吾はどうしたいと思ってるの?」
 美里が口を開いた。省吾は答える代わりに、手すりから体を離して、自分たちの席に向かって歩き始めた。ついてきた美里が遅れて座るのを待って、省吾は答えた。
「俺は…、正直言って、わからない…」
並んで座っていても、やはり先程と同じように視線はターフビジョンに向けたままだったが、答え終わった後に、美里の方に向き直った。
「もちろん、このまま一緒にいたい。今までと同じように時間を重ねていきたいよ」
 今度は若干声が大きくなった。そのせいか、美里は少し驚いたような表情を省吾に向け、その後、自分の指の先を見つめながら、呟いた。
「ありがとう。私も同じ気持ち。でも…、それは無理だよ」

(続く)

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