小春日和のセーラムドライブ 8
窓口で買い目を伝えている美里の姿を離れた位置から見守っていると、馬券を受け取った美里が歩き出してすぐに省吾を認め、笑みを浮かべながら小走りで駆け寄ってきた。
「ちゃんと買えたよ。ほら」
美里が差し出した馬券に間違いがないことを確認してから、省吾は自身の分を購入し、二人は席に戻った。
暫くして、レースはスタートした。
「どこからスタートしたの?」
「あっち」
美里の質問に、省吾は1、2コーナー中間の方角を指差した。
「セーラムドライブは今どこ?」
「今、2番手だな。緑色の帽子だから」
ターフビジョンの画像には向正面を走る馬群が映っており、セーラムドライブは楽に追走しているように見えた。
直線に向くと、逃げ馬が早めに失速し、セーラムドライブが先頭に立った。
「あっ、あの緑の帽子、そうだよね」
美里が興奮気味に口にして、ターフビジョンと眼下の直線とに交互に視線を移し始めた。
「あー、これはもう楽勝だな…。あっ、追いこんでくるのはスカイチェイスだ」
省吾も残り1ハロン標を通過していく馬群を見ながら、ビギナーズラックに苦笑しながらも、自分のことのように嬉しかった。
「やったー!」
3馬身程千切って緑帽がゴールした瞬間に、美里は喜びの声を上げた。
「セーラムドライブ、強かったな。2着もスカイチェイスでバッチリだ」
省吾も一緒になって喜んだが、次の瞬間、顔を自分の方に向けない美里の目から、一筋涙がこぼれたのを見逃さなかった。
1ヶ月後、省吾は東京へ配属が決まった。
支店の同僚が催してくれた送別会では泥酔してしまい、一次会で帰宅した美里の自宅に、夜遅くにもかかわらず、つい電話をしてしまった。
電話口に出た美里の母親は、明らかに酔っている男からの夜更けの電話に対し、声を荒らげるでもなく、静かに言った。
「美里は、もうかけてこないでほしい、とのことです。あの子も辛いんです。わかってあげてください」
省吾は非礼を詫び、電話を切ってから初めて、掛け替えのないものを失っていく序章であることに気づいた。
その後、省吾は東京勤務になったこともあって、競馬は続けていた。翌年のジャパンカップでのオグリキャップの走りは感動して涙が出た程だった。
しかし、美里との別離を選んでまでも当時こだわった勤務先は、バブル崩壊後の長い不況により、省吾の勤続20年を目前にして倒産してしまった。
一方、美里は28歳の時、県庁勤務の地元の名家の次男と見合い結婚をした。それを省吾が風の便りで聞いたのは、もっと後になってからだった。
昭和という時代の、省吾にとっての4コーナーを回り、ゴールまでの長い直線に向いた時には、年齢的にはまだまだ余力十分のはずだったが、残念ながら情熱を失ってしまっていた。
平成の元号も二十数年になろうとする今、省吾は当時からずっと変わらず独り身のまま、何とか入社できた転職先に出勤するため、PCの電源を落とし、冷めたコーヒーを一気に流し込んだ。
【完】
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