上野で、奄美の風に出会うよろこび(田中一村展感想)
衝撃的に良い展覧会が東京都美術館で開催されている。
田中一村展、もうすでに行っただろうか?
12月1日には閉幕で、東京以外の巡回会場はない!急げ!!
美術好きからアツい視線を浴びる展覧会はこれだ
概要は公式サイトから↓
私もこの画家を知らなかったのだが、「都美で個展をするくらいで、知らない人って…?」と興味を抱いた。
そしてキービジュアルの南国の絵がルソーのジャングルを彷彿とさせたので、「独学で絵を学んだ面白いひとなのかな~奄美を代表する画家ということか~」と思い楽しみにしていた。(その予想は展覧会冒頭で良い意味で裏切られることになるのだが。)
この主催者あいさつが物語っているように、田中一村の良さをひとことで語るのは難しいと思う。世俗的な栄達とは無縁――要するに、生前は売れていなかったのだ。
しかし彼の画家としての生きざまを垣間見てしまった人間は、さも自分が画家を見出したかのような個人的な敬愛の念を抱くと思う。
国立西洋美術館で同時期に開催されている「モネ」の展覧会とは知名度に圧倒的な差がある。けれども静かな興奮が口コミから広まり、会場はいま、熱気を帯びた老若男女でにぎわっている。
個人的な感覚では、センスの良いひとはしれっと行って「一村いいよね」としたり顔をするようなゾーンに入ってきていると思う。いま上野で「モネ」でも「はにわ」でもなく、「一村」に行く人は”通”(私が勝手に言っているだけ)。
監修の先生の文章を読むと、べつに私たちが一村を見出した世代ではないのことは明らかだが、それでも令和になってここまで大きな個展をやっているときに立ち会える我々は一村に縁があるといえよう?
若くして構図&写実の才能は満開
冒頭いきなり満8歳の頃に書いた死ぬほど上手い筆の絵が出てくる。ちなみに生まれは全然奄美ではなく栃木生まれ東京育ちのおぼっちゃまである。
彫刻師の父親から書画を学んで、それは家庭環境が恵まれていたんですね〜ではちょっと済まされない画才。このままぐんぐん成長し、藝大の前進の東京美術学校にストレート合格。
ここまで展示としては壁面一枚くらいで爆速で過ぎるという……。
その短さの間に、きちんとデッサン上手い人って嬉しいよね〜という気持ちにちゃんとなりつつ、南画(中国の南宋画を日本的に解釈したもの。色つきの水墨画みたいな感じ)ってこういうものなんだなの学びもある。
南国っぽいキービジュアルを見て、「ルソーみたいだな?」と思ったけど、独学の空想画家とはむしろ正反対なアカデミックな背景を持つ画家と言えよう。
幼い頃からも発露しているように、「構図のセンス」と「写実の力」が素晴らしい。
大胆なカメラワークを感じさせる浮世絵的な構図は、琳派の鈴木其一を思わせ、好みだった。「構図にクセがある」とまで解説で言われていて、それも納得。
特にこれ!
これ、二双の屏風として伝わったそう。
ただ、この絵はその二双のうちの、右側。
左側は、同 じ サ イ ズ の 金 屏 風 で 絵 が 何 も な い の で す……!
格好良すぎない!?
写実に関しても、目にレンズがついているのかと思う正確さ。
構図のセンスと合わせて、カメラみたいだなと思っていると、写真に傾倒した時期があったという展示も。そういう納得感も見ていて嬉しい。
画面内の圧のコントロール
そうした具体性を、抽象的で簡略化した表現と合わせ、ひとつの画面で巧みに同居させるのだ。
この、写実性を自在に操る感じは、現代のアニメにも通じるところがあった。ジブリ映画などのような背景美術に憧れる人は、きっと行くと面白い発見があるはずだ。
これを可能にしているのが絹本着色なのではないかもと思う。
東京都美術館が掛け軸や屏風でいっぱいになるのもなかなか珍しいなと思いながら見ていったのだが、絹本着色は油絵と水彩画の良いとこどりをしたような魅力がある。
画業の転機となったこの作品でも分かるかもしれない。
カメラのピントが合っていない部分のような表現を薄墨でざっと描く。
植物の枝ぶりや動物の毛並みなどは緻密な滲みや細筆で魅せる。
一方で油絵のような質感のある顔料の乗せ方で花などの生命力を表現する。
そうした合わせ技でかなり格好良い絵になっていて、描き込みを調整することで画面全体の“圧“の緩急巧みにコントロールするバランス感覚が素晴らしかった。
都美だからこその人生の追体験
東京都美術館の特別展示室は、3フロアを下から上がっていく構成になっている。
これが画家の画業を振り返る個展にはとても相性が良いと常々思う。
今回も田中一村の
「東京時代(正統派)」
「千葉時代(模索)」
「奄美へ(到達)」
と綺麗にステージが上がっていく様を追体験することができる。
最上階へ辿り着くと、鬱蒼と繁る草木と遠くに波打つ海が生命力をフロア中に放っている。
一村が自らをして「閻魔大王えの土産品」と言わしめた集大成。
語れることは多くなく、静かにポストカードを握りしめて帰るだけだ。
さて、解説で多々「生業としての画家の暮らし・仕事」が言及されているが、この3フロア構成により、代表作やその習作だけでなく、支援者や関わりのあった人からの発注で制作したものも合間にたくさん見られる。そして、一村の人生で「作品制作」という営みが移ろう四季のなかで当たり前のように、絶え間なく息づいていたことが感じられる。
こうした襖絵や人形の展示は、そもそも日本が暮らしの中で工芸品を愛でていたことを感じられる機会でもあったし、また一村の、支持体にとらわれずどんな依頼にも器用に応える才覚が見られるコレクションでもあった。
また、3フロアで綺麗にステージが上がって行くと述べたが、丁寧に展示を追っていくと、確立されたかと思われた画風が、あれれ?と思わせるほど揺らいで、回帰して、また移ろい、何かを掴んで、そして過去の技術も抱いて完成していく様を目撃できる。
ナショナルシアターライブで観た「The Motive and the Cue」で俳優が役作りに挑む稽古風景の場面でも、人が何かを掴む過程が見られて面白かったが、それと似た喜びがあったと思う。
出会う、識ることのよろこび
不遇な画家人生はルソーかもしれないが、南の島と運命の出会いを果たしてそこに住まい制作した人生は、むしろゴーギャン?
必死に自分の中の知識を引っ張ってきて理解しようとしても、そこへ追いつかない「すげえ〜」というため息が出るばかり。
周りを見渡しても口が半開きのおじさんお姉さんばかりで、そんな空間って、面白い。
可愛かったのは、「この絵一番好きかもね!?」と全部の絵の前でお母さんに報告する4歳くらいの興奮ボーイだったかなあ。「ママもこれ好き」という会話を間近で聞いて、幸せな気分になった。
一村について描かれたキャッチコピーやどこが好きかを語った著名人のコメントをほぼみたことがない。あるコンテンツに、そういうまっさらな状態で向き合うことができることができる機会は限られている。
この絵を見て、どこの国で描かれた?いつ制作された?だれが描いた?わからない!となってしまっていた私が、今日は一村の名前を口にする。
この経験はゾクゾクするほど不可逆で、痺れる知識との出会いである。
みんながあんまり知らなかった良いものを、分かりやすく、広く、識る(しる)。
これが美術展の一番嬉しいことのひとつだと思っている。
何これ素敵!と何十万人が思ってその嬉しさを持って帰り、広げる。
もしかしたら奄美へ行きたくなる人がいるかもしれないし、掛け軸っていいなと思うかもしれないし、売れる絵ってなんだろうと疑問に思うかもしれないし、なんにせよそこに何かしらの心の動きや学びの出会いがある。こういうのって嬉しいなあ。
芸術の秋。ぜひ、東京都美術館へお出かけしてみては。
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