![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/114521431/rectangle_large_type_2_88fa352c2c142771780bf3da88ed416f.png?width=1200)
#19 "お笑いのウラ"「『笑い』でやっと関われたのに」
TBSのバラエティ番組である『水曜日のダウンタウン』において、このような企画があったようだ。
対してこの日放送されたのは、そんな酒井が相手の実家に結婚のあいさつに出向くと、家中に怪しげな文言や紋章の張り紙などが貼られているというドッキリ企画。
結婚発表回に続いてディーラーを務めた麒麟の川島明が企画内容を説明し、「『それでも結婚したいのか』と、愛を確かめる意味合いもある」と言い添えると、浜田雅功からは「悪いことするなぁ」とツッコミが入った。 VTRでは、酒井が相手の実家でさまざまな“ヤバさ”を体感。思わずその場にへたり込んで涙を流すと、ネット上では「これは泣く」「やりすぎw」「怖すぎやろ…」と同意の声も多くあがった。
実際に放送を見ていなくても、以下のまとめを見るとだいたいの流れがよく分かると思う。
この放送に関し、面白いという賞賛のコメントが多数を占める中で、やはりこの訴えかけるような酒井氏の表情が共感を誘ったのだろうか、結婚挨拶に番組が踏み込むなんて、というような批判的なコメントも散見された。
そして、時間をおかずしてこの放送である。
番組では「ロケ中ミスをしたスタッフが次々とボウズになって戻ってくるとんでもないパワハラ現場テンションの作り方難しい説」を検証。ロケ現場でミスをしたスタッフ役の若手芸人やエキストラが、次々とセルフでバリカンを入れ、丸刈りにして戻ってくる、という内容だ。 企画は最終的に、長髪の女性スタッフも「女だからって関係ねえから、やってこい」と言われ、自らその場で丸坊主になった。
その女性は、じつはお笑いコンビ・チロリアン太陽・舞で「前からボウズか角刈りにはしようかなと思ってたので」と、短髪にする予定があったとネタ明かし。それでも、急に頭を丸めた姿に、ドッキリのターゲットである豆柴の大群のモモチ・ンゲール、レオナエンパイアは驚きのあまり、目に涙を浮かべてしまった。
そのほか、「カメラが回ってない連帯責任」として、男性スタッフだけでなく、メイク担当という設定で出演していた女性芸人・超時空さをぴも頭を丸めた。 事前に了解している仕掛け人たちの丸坊主姿だが、それでも衝撃的な映像にSNSではさまざまな意見が寄せられた。
《男性も女性も坊主了承済みだとしても、実際バリカンで坊主にするって、どんだけの心の葛藤があるかって話よ… 売れない芸人が水ダウ出れるからって髪の毛と引き換えにOKしたとしてもよ、見てる側としてはただただ胸が痛いだけで笑えない》
《昨今の野球部のボウズにしなくていいって風潮から女性でも関係なく即バリカンで丸坊主にする水曜日のダウンタウン怖い》
《水曜日のダウンタウンは子供には一生見せないことをここに誓います 女の人を坊主にして笑ってたぞ?》
《水曜日のダウンタウン…ちょっと、やり過ぎじゃない? 女の人の髪の毛までする? みてて、あまりいいもんじゃないから、番組変えた…》
もともと水ダウは過激な企画が多い番組だというのは、この番組を知る者からすれば当然のことと認知されているだろう。放送時間は毎週夜10時からで、家族向けに用意された番組ではないだろうし、おもしろいと思える人に楽しんでくれればいいという、そうした内輪向きの番組であると言えそうである。しかしそうした番組ですら、それへの批判のコメントは無視できないほどの量にまで増えてきていることが窺える。
********
深夜帯の番組ですら、批判コメントが多く届いているのだ。朝や昼間など、家族や主婦をターゲットにした番組でこれをやってしまえばどうなるのだろうか——。
少し前になるが、ちゃんと実例がある。
そんな春日だが、「笑える」トラブルとは裏腹に、「笑えない」事件を起こしてしまったのは、3月のことだった。3月24日、春日は情報番組『スッキリ』(日本テレビ系)に出演。ペンギンにエサを与えるため、「那須どうぶつ王国」を訪れた。
エサの魚が入ったバケツを片手に立つ春日に対し、中継を見ていた番組MCの加藤浩次は「足元、気をつけろよ!」と何度も“フリ”をした。そこで春日は、転んだふりをして、何度も池に落ちたのだ。
「エサを目当てに集まっていたペンギンは、春日さんの“落下”によってパニックに陥りました。動物に怪我をさせかねない危険な“演出”に、園側は、放送日当日に『誠に遺憾』『事前打ち合わせにはなかった状況』と、日本テレビに厳重抗議をおこないました」(芸能記者)
この件に関しても視聴者からは実に多くの批判が寄せられ、当時のネットはすさまじい勢いで炎上していた。
この件を踏まえ「炎上→謝罪までがセットになってしまっている」と苦言を呈したのがカンニング竹山氏だ。
カンニング竹山氏は暗い表情で「もうこんな時代になっちゃったか。世知辛い」と話す。やっちゃいけないことをするのがお笑いなのであって、それを叩いて謝罪してっていうのは冷める——古典芸能としてのお笑いを愛してきた彼からすれば、その意見は尤もだろう。
********
こうして徐々にお笑い界は、バッシングと謝罪がセットになり委縮してきた。その流れは決して避けられるものではなかったように思う。なぜそうなってしまったのだろう。
自分はこのように予想する。
竹山氏が言うような「笑い」とは「俺らが積み上げてきたもの、お前そこでぶっ壊しちゃうの!?」というニュアンスを常に含んでおり、それがウケるためには、大衆(視聴者側)にも「そうそう、俺らががんばって積み上げたものも、すぐ壊れたりするしな」という共感の土台になる経験が必要だったのではないだろうか。 しかし今は世の中の失敗が排除されすぎて、積み上げたものがぶっ壊れるシーンに対し「なんて悲惨な!」という目でしかそれを見られなくなっている——そうした世間の流れを反映していると考えるのが妥当であるように思う。
結婚挨拶にしろペンギン池にしろ、そこにドッキリをしかけることで誰かが嫌な目に遭うなんて分かりきっていることだ。しかしそれでも先人たちが自分たちの笑いを優先する理由はたったひとつだろう。なんとか笑ってやり過ごさなければいけないような場面が、誰にも等しく降りかかってくるような時代だったからだ。昔は今ほど自由でなく、かつ快適でもなかった。そこで日常的に経験せざるを得ない負の感情を昇華する手段として「お笑い」があったように思う。
しかし今は快適で平和だ。平たく言えば、無理にでも笑って乗り越えないといけないほどの苦しみを経験するような機会がこの社会から姿を消したのではないだろうか。ともすればお笑いの意味も変わってくる。かつてまでは我々の不幸を昇華してくれる救いのような存在が、今では、ただ他人に配慮できなかったというだけの——即ち『やらかし事件』以上の意味を持たなくなってしまった。ストレスなく平和な社会を実現するということは、同時に、人々がそこに笑う動機を見出しにくくなるということでもある。
********
かつてのお笑いに慣れた人からすれば、こうしたお笑い界の委縮は実につまらないものだろう。しかしそれはこの世が平和になったということの裏返しなのでもあって、ならばそれは素晴らしいことじゃないか——。
そう結論づけるのも早計だと、自分には思えてしまう。
なぜなら「笑う動機を全体として見失った社会」は即ち「どうしてもそこで笑わねばならないような場面に遭遇しやすい者たちに救済の手段を与えづらい社会」でもあるからだ。
それを考えさせられた動画がこれだ。
片腕男子こと宮野さんが、自身のその特徴を笑いに変えることで前を向いている様子が伝わってくるが、そのスタジオもどこか仰々しい空気になっていることは否めない。唯一ひろゆき氏だけが「じゃあ乙武さんはつまらないてことっすね」とあっけらかんとしているように見えるが、他の出演者はそのほとんどが「やはりそれを笑っていいかどうかは本人の意向を尊重するべき」というような意見でまとまっているように思う。
これこそが、昨今のお笑いの委縮の形を端的に表現しているだろう。
日常的な制約や不便が国民の共通体験のベースではなくなった今、笑うという形で他者に介入することに、我々はあまりに不慣れとなってしまった。「大丈夫だ、俺が笑い飛ばしてやる!」という半ば強制的な干渉を人々が手放してしまった結果、笑うも笑わないもお前の意思で決めろ(=俺たちにそれは決められない)という自己責任に帰着することしかできなくなっている。
これは、かなり先行きの暗い動きだろう。不幸の渦中にいる本人が、自分の意志でそれを笑いに変えることは難しい。だからこそ周りの人が励ますのだろう。「がんばれ」「未来は明るい」「挫けるな」と。
もちろん、笑ってやるタイミングを考えてあげたり、また本人が今は望まないというのであれば一時的にそっとしておいてあげるというような気配りは必要だ。しかしその気配りがエスカレートし、その特徴を笑っていいかどうかはその本人に決めさせるべきだという意見が普及するような動きには正直なところ頷けない。それは本人の意向を尊重する気遣いに溢れた言葉のように見えて、実際には「笑うという加害リスクを背負った処方に自分は手を染めたくありません」という、どちらかといえば相手との関わりを放棄する方便として機能してしまう。そのことに、現代人はかなり愚鈍になっているように見えるのだ。
結果、宮野さんのように自分で自分を笑ってほしいと相手に伝えられるような、そんな精神的にある程度タフな人材は自力で這い上がることができるものの、その意志決定にひとつ勇気が踏み出せない者は、誰からの干渉もなくその孤独感をより一層募らせていくことになる。そうした社会を我々は選び取っているということに自覚的であるべきではないだろうか。
********
笑い。
それはふと天から降ってくるような感情ではなく、何かの不幸とセットでそれを意図的に消化するための手段でもあっただろう。しかしその「セット」という感覚を失い始めている我々は、笑いくらいしかその場を乗り越える手段がないような特徴を持ってしまった人の孤独をより強めてしまう。
人の不幸を笑ってはいけない。それは確かに正しい。
しかし、こうも思う。
人類は笑いなくして他人の不幸と向き合い続けられるほど、タフな生き物はない——と。