#16 "世界のウラ"「加害と被害の二項対立に帰着するマズさについて」
一昨日、韓国DJがセクハラにあった件についてまとめた。
だいたい世間のニュースなんて三日もすれば忘れ去られ、誰も話題になんてあげなくなるものだけれど、どうやら今回は少し長い。未だにこの話題が擦られている原因は、次の一点にあるように思う。
被害者も、他人を加害者にしないような立ち振る舞いを心がけるべきだ——。
この言説が、日本ではどうやら相当なフックになってしまうようなのである。Xの議論を見ていても「被害者を責めるような発言はひとつも許すべきではない。加害者を罰して終わり。それだけの簡単なことがなぜできないのか」というような論調で主張を繰り返すアカウントをいくつも見た。正直なところ、そうしたアカウントが自分の想像をはるかに上回る量で存在することに驚きを隠せなかった。僕は小さいころから「少数意見にも耳を貸しましょう」と教わった記憶があるのだが、加害者を擁護する発言と捉えられた瞬間にその教えは無に帰してしまうらしい。それが弱い者いじめでなかったらなんだろうと思うのだが、多くの人は自分サイドを「いじめられる側」だと認識しているように思うし、だからこそそこに歪みが発生してしまうのだろう。
先に結論から話す。「被害者を責めるような発言を少しも許すべきではない。加害者を罰して終わり」という発言はおおよその場合において「自分がいつその加害者側になってもおかしくない(=その加害を発露しやすい性質を持って生まれていてもおかしくない)」という思考の余白を完全に失ってしまっている。自分にはそう見えた。
人間なら普通に生活していれば誰しも、誰かを傷つける「加害」の立場と誰かに傷つけられる「被害」の立場の間を何度も行き帰る、その往復作業の中を生きることになるはずだ。人間をやるうえでは必ずそのどちらも経験しなくてはならないからこそ、両者の立場に立った中間的な解決方法を探さねばならなかったのだろう。しかしこの『中間的』という表現が今の日本人の多くには受け入れられない。なぜ被害者側が歩み寄らねばならないのか——そうした意見がその勢力を増している背景には、人々が「自分が加害と被害の立場を移ろいでいる」という自覚を失い始めている世の動きがあるのではないだろうか。ちなみにそれを言い換えると「平和になった」ということでもある。
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こうした話題になると思い出すのは、2,000年代初期の環境問題である。
自分が小学生のころなので当時の記憶はおろかだ。あとから調べたことがメインなのだけれど、あのころの環境問題も「加害者と被害者の立場の移ろいやすさ」を忘れさせるように作用していたのではないかと思うことがあるのだ。
その頃から地球温暖化が進んでいると問題視され、割り箸やレジ袋の削減などが推奨されるようになった。それにより木を多く切ることは悪というようなイメージが定着し、ニュースで流れるのは、オゾン層破壊により紫外線が増え日焼け対策に困る女性や、その住処を奪われ続けるホッキョクグマばかりだった。しかしその裏では深刻な問題が同時に発生していた。林業の崩壊である。
しかし、こうした林業従事者の減少や相次ぐ倒産がトップニュースとなるようなことは無かった。それらに比べて多く報道されていたのは、先述したような女性の肌であったり野生の動物の住処だっただろう。あの頃に見聞きしたのは、そろそろ紫外線がやばいとか北極の氷が一気に崩れ落ちててすごいとかそういう話題ばかりで、これからの林業がやばいというような声はなかなか聞くことができなかったように思う。
そして、そのころに打ち出され始めたスローガンは決まっていた。
みんなで暮らす地球。みんなが当事者意識を持とう——。
その時代を暮らす人々に『当事者意識』という何より大事なものを持とうと訴えかけた結果、そのトップニュースが女性の肌や野生のクマちゃんになってしまったというのは実に示唆に富んでいるように思う。それらはれっきとした『環境問題における被害者』になれた。しかし林業は話が別だっただろう。木材なしに我々が生きられないことは誰もが知っている。しかし木を切り倒している以上、その現場の困窮を環境問題において被害者的な立場に誘導することは困難だった。実際のところ、手入れを行わないほうが山肌が荒れて土砂災害が増えるみたいな話はあったりする。しかしこれだけ木材を節約しようという流れが出来上がった中で、林業従事者を増やそうと大きな声を張ることは当時できなかった。それは今も変わらず、どちらかと言うと「新しく植木林を作る動きに取り組んでいます」というような見栄えのいいストーリーのほうを人々が求めてしまうような心理も否定できない。
そう思うと、あの頃の林業というのは実にわかりやすく「加害」と「被害」の立場を移ろいでいたな、と思う。むやみにそれを切り倒してはいけないという加害側に立たされながらも、第一次産業が全般的に抱える問題に直面する、れっきとした被害者側の当事者でもあった。
しかし残念ながら、それがそのまま中立的な立場に誘導されることはなかった。他でもなく、環境問題という言葉の持つイメージによる印象操作である。人々は少しでもその思考を楽にするため、『木を切る=加害』『温暖化で困る生き物=被害』という二項対立に帰結させてしまった。
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ここまでで話した『環境問題』というワードを『女性の権利』に置き換えることで、昨今の女性問題を考えるうえでの補助線とできたりしないだろうか。
2,000年代の初期の林業界隈がそうであったように、男性もそうした加害被害のグラデーションを移ろいでいるように思う。魔が差して女性の大切な資産に触れてしまえばそれはれっきとした犯罪になる(=加害者となる)が、しかし、そうした犯罪に抵触する衝動の原因となっているのは男性の性的価値のなさであり、それにより男性が未婚増やホームレスなどの形で疎外されやすい(=被害者となる)という問題が残っていたりする。たったひとつの『○○が○○である』という単純な事実が、加害にも被害にも転じるというのはよくあることだ。ではそこで、林業界隈が現状を踏まえて「いかに環境を傷つけずに持続可能な伐採を続けていくか」を考えることで建設的な議論となるように、男性についても「いかに女性を傷つけず、しかし同時に彼らが包摂されやすい社会を実現するか」を考えていきたいところなのだが、それを阻むものがある。
世間の風潮である。
地球温暖化はまずい、という世間の風潮が林業を相対的に悪の立場にコントロールしてしまうように、女性の権利が保障されないのはまずい、という世間の風潮が男性を相対的に悪の立場に誘導してしまう。誰もが地球の当事者となろうとした世界では共感のリソースが女性や動物に大きく傾くのと同じで、誰もが男女の当事者になろうとした世界では共感のリソースが女性側に大きく傾いてしまった。それはこれまでの記事でも何度か書いたことである。
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こうしたことから学び取れるのは、やはり、加害と被害の二項対立でその話を閉じ込めてしまうことの危険性なのだろうと思う。加害と被害のみで事件を語ろうとすれば、そこでは必ずどちらかを加害者にしなければならず、世間がより当事者になりたくない人物をそちらの檻に閉じ込めるという動きに収束することになり、その生贄を見て多数側が正義感に浸るという構造を抜け出せなくなってしまう。その構造内で我々が生きているからこそ「その生贄も、また他の見方では被害者でもある」という言説は、矛盾したものとして即座に棄却したくなってしまうのだろう。
そう考えると、実に変なことだ。より純粋な加害被害の二項対立によって物事を考えることで、その奥にある実際の加害被害の関係はかえってあやふやになってしまう。加害者がすべて悪いという大義のもとに全面的に被害者を守ろうとすればするほど『絶対に守られない被害者』というさらにパワーアップされた被害者が新たにぽつりと発生することになる。
それにより治安が良くなった側面はもちろんあるのだろうけど、仮にそうだとしても、当事者性を誘発しにくい者を外部に追いやりその弱い者いじめを正当化することでこの世はなんとかなっているだけだということを自覚しておきたいな、とは思う。