本当に欲しいものを見つけること。その難しさ。
買い物というと、いかにも欲求的で、楽しくて、誰にでもできることだと思える。
むしろ、お金さえあれば、ひっきりなしに物が増えていくと想像される。
誰もが「お金さえあれば」と考えていて、お金には無限の可能性があるように考えているようだ。
しかし、大した時間を生きていない僕でも、お金を使う上で気付いたことはたくさんある。その結果、お金がたくさんあればそれで良い、という問題では無いことが、なんとなく理解できてきた。
かつての僕は、欲しいものは全て買っていた。我慢するということを知らず、お金があればあるだけ使っていた。
欲しいのだから、そんなものは当たり前である。
そのために、生活に必要なものを犠牲にしまくっていた。ご飯を食べられなかったし、光熱費を払うのもギリギリで、お金が全く余らないなんて日々は、何年も続いた。それでも、楽しかった。
僕はいまだに、その考え方を間違っているとは思わない。
多くの人が、「必要だから」という言い訳を作っては、お金を消費しているように見える。
服も必要だし、食べるものも必要だし、それらの消費活動自体がストレスの解消になっている、ということもあるだろう。
自分のストレスを解消すること自体にお金がかかるなんて、それこそ生活というのは本当に大変だな、と思えてならない。
自分の機嫌を伺うために、お金がかかるということだ。
それでいうと、僕は病院に行くお金も出したくはなかった。
はっきり言って、体はボロボロだったが、それでも「必要なこと」にお金を出し渋った。これは、一般的な価値観とは逆かも知れないけれど、僕にとってそれらは「我慢すべきこと」だった。
普通は、必要なことには惜しみなくお金を使うだろう。
使っていい、というお墨付きをいただいているような感覚だ。お金の神様にコントロールされているのかも知れない。
「必要なこと、もの」というのは、多くの場合、「社会活動」に関連した事柄だろう。
社会生活を送る上で必要、という意味で、まるで賃貸の共益費のような感じだ。
しかし、それらは本当に使わなくてはならないお金だろうか。
家計簿をつけている人もいると思うが、その出費の一つ一つを観察してみてほしい。それらは、なぜ必要だったのか。その消費は、一人の世界で完結しているものか。あるいは、他者が絡んでいることか(非常に広い意味で)。
そう考えると、
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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