ほとんどのことが、家事から学べる。家事を甘く見るのは、あまりにもったいない。
何でもかんでもお金に換算するところが、人間の貧しさである。まるで、夫が働いていたら、その妻も同じような働きをしなくてはならない、と言わんばかりの知性である。
家事は、意外にも抽象的な作業だ。仕事のように定時もないし、これをやらなくてはならない、という取り決めもない。各家庭によってそのバランスは違うし、365日、本当に休む暇もなく常に齷齪と家事をこなしている人だっている。
いわば「個人の美意識」みたいなもので成り立っている家事は、非常に文化的な行為であり、その行為から学べることは非常に多様で、奥が深い。
もちろん、何を学ぶことができるかも、個人による。
高校生の頃から一人暮らしをやっているので、僕は家事を全般できる。
それだけの年数を一人で暮らしているのだから、できて当たり前だと思う。文句を言う人はいないし、誰かに見られているわけでもないので、気楽なものだ。
それにしても、やはり向き不向きというのはある。そもそも、僕はあまり掃除が好きではないし、片付けも好きではないので、気を抜けば簡単に散らかる。
初めに住んだ家はとてつもなく小さいワンルームマンションだったので、ひどい有様だった。
その後に住んだ家は、何軒か連続して戸建てだったので、それだけ広い分、散らかっていても「まあいいか」と気にならなくなる。そうすると、結局は、余計に散らかる。
広ければ広いほど散らかるということは、僕自身の精神がカオスだということだ。
まず、このことから、自分は片付けることが苦手なのだ、ということが学べる。「自分」の一側面を簡単に観察できるのだ。
そもそも、なぜ散らかるかというと、出してきたものを元あった場所に戻せないからだ。
本を出してたら、「また読むから」と考えての取りやすい場所に置く。
工作の道具も、「出してある方が効率的に作業できるから」と考え、そこら中におく。
コップ(カップ)は次々に出してきては、溜まる一方だ。でも、これも「コップが好きだから、色々なものを使いたいし」という言い訳を作り出す。
靴も歩きやすいもの、場にあったもの、サッと出かけられるもの、色々なものを履くから、しまわずに出しておこうと考える。
バイクでさえも、部屋から見える場所に置いておこう、デスクから見えた方が気分が良いし、と考え車庫に入れない。
そうやって、周囲はどんどん散らかっていく。
確かに、ある側面から見れば、それらは全て正当な理由に思える。
何が正しい、という決まりのない「家事」は、厳密に「職業」とは言えない。だから、各々の全てが正しいし、間違いはない。散らかっていたって、それは間違いではないし、人に迷惑をかけているわけではないのだから、強く指摘することは難しい。実際には、ゴミ屋敷のように明らかに所有者や周囲に被害があるが、そこまで極端な散らかり方というのは珍しい。
それほどに自由だからこそ、あるケースにおいては気の小さい人間が、「妻は遊んでいる」「家事なんて誰でもできる」と小言を漏らすわけだ。
ただ、いくら自由とは言え、デメリットはもちろんある。そこが面白く、非常に哲学的だ。
例えば、職場においても自宅においても、
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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