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まず、カメラで何を撮るか、面白い物を探しましょう。

始めに言っておくが、僕はカメラが好きとか、撮影の趣味は全く無い。
ただ、写真集はそれなりに持っている。写真集と言ってもアイドルのグラビアではなく、写真家の作品集だ。
もちろん、女優やアイドルの写真集を馬鹿にしているわけではない。素晴らしい作品は、たくさんあるのだろう。それこそ、サンタフェだって見たことがある。人物を面白く撮る、というのは全然ありだ。
ただ、エロを作品にするのは技術が必要。際どいショットがあれば、それだけで低俗な扱いをされる。実際、男性目線(というよりも性的な目線)の写真集が売れる。綺麗な人が卑猥な格好をしていれば、それだけで見られるのだから、全く芸が無い。面白いわけもない。個人的な意見なので、気にしないように。
これは逆説的な話だけど、凄いエロは性的では無い。芸術としてのエロは、それなりに綺麗だし、知的だ。だから性的な興奮は無い。谷崎潤一郎の小説は美しいし、明らかな芸術だと思う。要はそういうことだ。
まぁ、エロの話は置いておこう。

近年の写真界隈では、「ソール・ライター」が再認識されている感じがある。それほど好きではないが、まぁ良いと思う。生活の中にある色の素敵さや、境界の曖昧さなどのバランスが多くの人の心を掴んでいるのだろう。そこらのインスタグラマーの写真なんかとは、比べ物にならない。芸術なのだから、当然と言えば当然だが。
芸術としての作品と、いいねを集めて承認欲求を満たすための写真を同じ目線で見ても仕方がない。僕がわかるのは、作品としての写真や映像で、それ以外のことは知識が無いので知らない。ただ、インスタグラムを見ていて、「面白いな」と思ったことは一度も無い。まだ自分がやっていたインスタグラムの方が少しはマシだった。詩もそこそこ上手かったし。(またやっても良いかもしれない)

そもそも人間の目はあのライカよりも高性能だ。
だから、ただ綺麗な物、美しい物を見るためなら、カメラなど使わずに、自分の目で見るのが良いに決まっている。
今この瞬間を記録するために発明されたカメラだが、人間というのは本当に賢いもので、「記録」のための媒体を「表現」としての道具に昇華させた。放っておけばどうしたって芸術行為に走ってしまうのが、人間というものだ。これは、どの分野にも言える。もちろん、人間であれば皆が「作品」を作ろうとするわけでは無いが。
だから、ただ記録のために撮ることを否定しているわけではない。「作品」としての写真だって「発想の記録」なのだから。毎度のことだが、「こういう世界もあるよ」という無意味な話をしているだけだ。
とは言え、博物館や美術館の作品を、わざわざカメラを通して見る人は居ない。そういう観点で言えば、やはりカメラはただ記録をするという役割のみならず、「写真や映像でなければならない」シーンを切り取るための物であるとも言えるだろう。デヴィット・リンチの作品が、映画でなくてはならないことと同じように。カメラが無ければ、ああいうのは撮れない。明らかにただの記録ではない。

その瞬間をただ記録するという枠を越えて、それを「作品」として捉える時に最も重要なのは、「何を、どう撮るか」に尽きるだろう。
当然だが、目を向ける物、視点は人それぞれに違うはずだ。
例えば、月を撮るにしても、真ん中にそれを持ってくるのか、端に寄せるのか、雲が被るのを待つのか、あるいは何かしらの物を重ねるのか。
月のようにいかにもカメラを向けたがるものは、それくらいのパターンしかないから、作品として撮るのは難しい。
だから、そもそも写真家は月など撮らないだろう。少なくとも、あまり面白くない写真になることは間違い無い。月なんて目で見た方が絶対に綺麗だ。あるいは、月や花、ランドマーク、建造物、創作物のように、いかにも具体的な対象で目を引くものを面白く撮ることが、その写真家の腕だろう。花は誰が撮っても花として綺麗だ。それを何か違う美しさを引き出せる写真家は、真の芸術家と言えるかも知れない。プロなら、そんな物に目を向けるなよ、という意見もあるだろうが。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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