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自分に余裕が無いのに、人助けをする人

簡単に言うと、「やめとけ」である。
でも、本人たちは「見て見ぬふりをした方が、しんどい。」と思うそうだ。
それは理解できる。素晴らしいと思う。

ただ、基本的に自分に余裕が無いときは「放っておけばいいのでは」と僕は思う。
例えば、おばあさんが倒れていたり、子供が迷子になっていたり、財布が落ちていたり、いろいろあると思う。
そういうシーンに出くわした時に助けなかったからと言って、見つけた方が悪いということは無い。
そういう話を聞くと、「周りに誰かいなかったの?」といつも疑問に思うけど、「いたけど、みんな気にしてなかった」と言われて納得する。
別に大して問題があるわけでもない生活を送っている人たちを「大衆」と呼ぶが、彼らに余裕があるからと言っていわゆる「善行」をするかというと、全然そんなことは無い。

実際どうかはわからないけど、今苦労をしている、かつてけっこうしんどい経験をした、という人の方が、困っている人を放っておけないのかも知れない。僕個人の少ない経験だけど、そういう傾向が見える。
生活も困っていなくて、特筆するほどの苦労を経験していない人は、何か困っている人がいたら助けてあげて欲しいと思う。
実際、できることをしようとする人はたくさんいると思うし、一概には言えないとは思うが。

人間の欲求というのは留まることを知らない。
生活が安定していても、それ以上の楽しさを求める。さらなる豊かさを求める。それ自体は、もちろん全然構わない。
でも、目の前で人が困っているのを見ていて知らぬふりをできる人って、どういう人間なんだろう。僕だって、少し困っているくらいならいちいち人に近づいたりしないけど、道端で人が倒れていたり、子供が迷子になっていたら声くらいかける。実際、そういう場面は今まで何度かあった。ただ、意外にも我先に行動しようという人は少ない。
当時の僕は、楽な生活をしていたわけではない。

ただ、「見て見ぬふりをすると後々自分が苦しくなる」という神経は、僕にはあまり無い。僕は基本的に、なんでもすぐ忘れる。記憶しておこうと思わなければ、大概のことを忘れられる。
産まれてからの記憶や、古い記憶がたくさん残っているのは、もちろんそれを覚えておこうと思ったからだ。どうでもいいことに関しては、全く意識をそこに向けていない。意識が向いていないから、すぐに忘れてしまう。色々な人と関わってきて、自分の記憶に関するメカニズムは、少し人と違うかも知れないと思うようになった。
ただ、困っている人がいる何も感じずスルーしているわけではない。事情があって、「今は無理」という具合だ。

しかし、人助けをする人は、自分が忙しくてもする。体力に余裕が無くてもする。
最近、偶然にも通話をしている相手が急に電話を切ってしまったことがあった。何かあったのかと思うような雰囲気で、気にかけていた。
少し経って連絡があったのだが、目の前でお婆さんが倒れ込んでいたらしい。
僕が知る限り、その人の日常にそんな余裕があるとも思えず、「よくやるなあ」と思った。ちなみに、同じ日に誰かが落とした「カード」なんかも警察に届けたらしい。
その人は僕が知る中でも、かなり忙しい人だ。
それなのに、「見て見ぬふりができない」というだけで、色々と奔走している。
こういう人が世の中にいて良いなと僕は思う。何が良いのかは全くわからない。ただ、微笑ましい。それが全てだ。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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