【1月13日】いよいよ試験が近づいてきた、と思うと、もう前日だった

センター試験も新しい共通テストも、各大学の選抜試験も、個人的にはどうでもいいと思っている。
どうでもいいというのは、試験など不要ということではなく、ある程度難しければ、なんでもいいのでは?という意味。

これからの共通テストでは、より「考える力」が重視されている。ある要素を展開し、思考を飛躍させ、少し遠くにある解答を導き出すという具合だ。
推論が非常に重要な要素となっている。

言わずもがな、考える力は大切だと思う。小さな要素から大きな解答を演繹的に導き出す思考は、生きていく上で養った方がいい力だろう。
ただ、このような抽象的な能力を、「定量的なテストで測る」ということに、何か意味があるのか?というのが本音だ。
もちろん、作成者(大学組織、文科省も含め)だってそれで「その人本来の能力を測ろう」なんて思っていない。

試験は不要、ということではない。
それが無ければ、各大学を差別化できない。ある大学に入るために必要な努力を積み重ねる、という経緯は絶対に必要だ。
例えば、東京大学に入りたい子供、あるいは入れたい親は、そのための環境を用意する。これは、経済力がある家庭という意味ではなく、優秀な人材を育てるために必要な教育ができるか?という複雑な問題である。
何を持って東京大学を高レベルと評価するのかは難しいところだが(国際的な評価は、さほど高くない)、学力的に同等の大学が国内には少ないので、そこに属している若者は、必然的にマイナな人種だと言えるだろう。
それはただの事実で、彼らが人間として優れているとか、賢いとか、そういう意味ではない。それを決めつけてしまう方が、よっぽど差別的だろう。

僕は、人間を学歴や仕事で判断しない。どういう人であれど、「この人は、こういう人だ」と判断することはしない。
誰がどういう人間かなんて、僕にはわからない。長い期間、関係性を築いていけば、それなりに自分の中で判断をつけるだろうけど、数十年を費やしても、その人の全てを知ることができないだろう。
ただ、人間関係を続ける以上、何かしらの判断は下している。
その都度、その人を見て判断し、「良いところもあれば、妙なところもあるな」と思うくらいだが。でも、関係が少しでも築かれるということは、楽しいことがあったわけだから、できるだけその人の良いところを見ようとするだろう。
そうすれば、少々、気にくわないことがあっても、「自分も大した人間じゃないしな」と思うだけで済むし、「この人には、その何倍も良いところがある」と思うだけで済む。
何より、そうやって相手を介して色々なことを考えることで、自分の思考が深まる。それが、人付き合いの価値だと僕は思う。

人間との出会いに試験はない。
どういう試験を用意すれば、その相手を判断できるだろう?
会社なら、その人材が面白いかどうかは、面接で特定の質問をすれば、ある程度なら測ることができる。
もちろん、面接をする人間の見る目にもよるが、具体的な目的(この場合は会社の利益になるか)があれば試験は可能だ。
職業の面接に比べれな、人間関係の目的は、非常に抽象的である。
人と関係が築くためには、「自分にとって得があるか」を見るのだと思うが、それをどう測るかと考えると、かなり難しい。
話や趣味が合うか、という基準を設けても、それを明確に規定することはできない。結局は、ぼんやりとした雰囲気や、感情になる。

例えば、「数学が好きだから話しませんか」と言われても、一体その人は数学のどこが好きなのか、それがわからない。
学生に、「私は、僕は数学が好きです。先生はどうですか」と聞かれることがあるが、「まぁ好きですよ」と言ったところで、「うわあ、話が合うなあ」とはならない。少なくとも、僕は別にそうは思わない。そもそも、そういう会話をしたって、それは「数学の話」をしているわけではないので、「数学の会話をした」とも思わないはずだ。
「数学が好きなんだ」という部分がマッチしただけで、それで打ち解け合えるほど、人間は単純ではないと僕は思う。

同じアーティストが好きだ、と言われてもそれは同じだ。
「僕は、私はパンクロックが好きで、特にパンクの反体制的なところが好きなんです。先生はどうですか?」と話を持ちかけられる。「どこが好きか」という少しばかりの情報が加えられている分、比較的、答えやすい。
しかし、「確か、先生もパンクロックが好きだと言ってましたよね」的な視線で同意を求められても、「僕はパンクは好きだけど、パンクの反体制的なところが好きなわけではないよ」と返すしかない。
そうやって、要素を付け加えられると、こちらもそれに応じて答えなくてはならず、むしろ「あ、そうなんですね…」と相手にトーンダウンを誘発してしまう。「なんだか、期待に沿えなかったようだ」と申し訳ない気持ちになる。
つまり、このようにして人間関係のように定義できない問題は、非常に複雑で、一様に解答の無い問題へと転じる。
なんというか、具体的に何かを求めて人を見ると、ほとんどの場合、失敗する。それは、ほぼ期待に似ているからだ。

何が言いたいかというと、このように「解答がない謎」こそが面白く、そんな姿勢が学問の基本だということだ。
人間関係で重要なのは、ある程度の常識だけであって、それ以外には何も必要がないと僕は思う。
その感覚があまりにズレていたら、ちょっと離れようと思うし、マッチしていなくても、基本的な常識を抑えられていたら別になんだっていい。
もちろん、常識というのは、空気を読むとか、挨拶をするとか、そういう慣習や、しがらみのことではなく、

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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