現代人の生活に、客観的な価値があるのか

民俗学や歴史学において、1000年前を生きていた人々の生活を検証することは、とても難しい。
どんな時代だった、どんな集団だった、など大きな単位の変化を知ることは比較的容易だが、一人一人という小さな単位の生活を知ることは、とても難しい。

それがなぜかはわからないが、大昔の人々は、自分たちの当たり前の生活を記録しよう、という神経が無かったようで、意外にも、「当たり前の生活」というのは詳細に残っていなかったりする。

しかし、僕たち現代人の生活は、しっかりと残っていくだろう。それは、主にインターネットが要因で、SNSは簡単に人々の「独り言」を残し、写真や動画に渡るまで、大量の生活が記録されている。
1000年後の人類は、その時点から1000年前の僕たちの生活を、詳細に理解することができる。冷静に考えると、これは驚くべき事実だろう。

短歌や俳句、書かれた書物などを読んでも、1000年前の一般の人々が、何を考え、「生きる」ということをどのように捉えていたのか、僕には全くわからない。
調べれば、ある程度の雰囲気は掴めるが、彼らが僕たちと同じようにモノを考え、あるいは感じ、

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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