言葉に向き合ってみる
言葉を選ぶこと、言葉について真剣に考えたことはあるだろうか。
私は少し繊細な部分があるがゆえに、言葉によっては相手が予想していないほど傷ついてしまったり、落ち込んでしまうことがある。だからこそ人に話すとき、メールやLINE等でやり取りをするときは必ず言葉のチョイスには時間をかけてきた。
言葉のチョイスに時間がかかるため、仕事の時には確かに苦労する場合がある。
例えば、メールをお取引先の方に送る際は、この言葉遣いで問題ないだろうかとか、失礼になってないだろうかとかあれこれ考えてしまい、文章を完成させるまでに人よりも時間がかかってしまう。それゆえ、上司に「別にそんなに考え込む必要ないじゃん!ぺっって送ったらいいんだよ!考えすぎだよ!」なんて言われたこともある。
そう言われると、無意識に真剣に言葉に向かい合っている自分が煩わしくなってくる…。
先日、定期的な精神科のカウンセリングに行った際に、先生にある悩みを打ち明けた。
「他人からのアドバイスが辛く感じることがある」
普通はとてもありがたいことだし、感謝すべきものであるのだが、素直に受け取れない私がいる。しかしそれは、すべてのアドバイスに対してではないのだ。素直に受け取れるアドバイスもある。私自身が受け入れがたいアドバイスが、
「あなたの◯◯◯なとこを〜すればいいのに。」
というものである。一見普通に受け入れられる言い回しである。しかし私は、まるで自分を否定されたかのような感覚になってしまうためか、少し悲しくなるのだ。私自身の自己肯定感が低いことも影響しているのかもしれないが…。
おそらく、多くの方が考えすぎだと思うかもしれない。確かにその通りではある。しかし、言葉とこのように真剣に向き合うことはネガティブな側面だけではないのではないか。
言葉とはとても大事で、重みのあるものだと私は感じている。たった一言でも受け手次第では全く異なった受け取り方をする場合があるし、その一言で受け手のみならず、言葉を発した自分自身にも大きな影響を与えるものであると思っている。
それこそ最近であれば、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の森喜朗氏の発言が問題視されているのがその例とも言えるのではないか。
森さん自身がその言葉をどの程度の気持ちを持って発言したのか、私には分かりかねるが、例えその考えを強く持っていたとしても、当たり前のように公の場で口に出すべきではなかったのではないだろうか。もし森さんがただ軽い気持ちで発した言葉だったとしたら、これほどまでに影響を与えるとは考えもしなかっただろう。たった一言が受け手のみならず、世界まで波紋を呼び自身の辞任にまで影響を及ぼしたのだ。
いじめや誹謗中傷も同じことである。いじめる側は、「死ね」「キモい」などという言葉を空気のように吐き出す。生物が呼吸をするときに、特に意識しないのと同じ感覚のように。しかし、受け手側からするとその言葉とは鉛のように重くのし掛かり、時には跳ね返すこともできないほどにまでの重さとなるのだ。
私は決して、自分の意思を言葉に出すなと伝えたいわけではない。自分の意思や考えを言葉に出すことはとても重要であるし、その発言があるからこそ、人類は成長し、生きやすい世の中へと変化してきたのだから。ただ、伝え方を学ぶべきだと思う。言葉一つにしても、その一言が相手にとっては人生を左右する一言になりかねない(いい意味でも悪い意味でも…)。だからこそ、伝える、発言する上でその言葉について一旦立ち止まって考えてみるのもいいのかもしれない。言葉を考えることは簡単ではないし、時間もかかる。しかし、言葉について考えることによって、より相手に響くこと言葉のチョイスができたり、伝わることが可能になるかもしれないと私は思っている。